『悲劇の大地』 第3章


 「東方紅」は、朝の八時三十一分哈爾濱駅にガタンと大きな音を立てて停車した。女性服務員の大声や駅でのアナウンスなどにぎやかな大都会の駅の風景が旅の興奮を誘った。禹さんという地元旅行社の人が、荷物を取りまとめてくれ身軽になってホ−ムを歩いた。「あの一番ホ−ムで、伊藤博文が撃たれました」という解説を聞いた。哈爾濱駅前は、通勤と列車待ちの人込みで混雑していた。

 バスは、市内を走り、松花江近くのグロリアホテルに到着した。午後には、松花江の観光をした。水泳をしたり、太極拳をしていたり、多くの人がひとときの夏を存分に楽しんでいた。 「松花江(スンガリ)は、昔と全く変わっていませんな」

 私の隣に座っていた寺田さんが話しかけてきた。寺田さんはご夫妻で参加された方だ。「私は、昭和十九年に村山中隊という青少年義勇軍として、勃利の大訓練所に来ていましてね。勃利に来て半年ほどたって、通信の勉強のためこの哈爾濱へ派遣されたんですよ。哈爾濱で終戦を迎えました。戦後も一年ぐらい滞在したあと、帰国できました。だから、哈爾濱は私の在満時代の一番の思い出の地なんです。先ほど、昼食前に五十年前に住んでいた南崗区阿什街に行ってみました。昔の姿はありませんでしたなあ。馬家昿河という狭い道路だけは昔のままでした。私の思い出深い中央大街(キタイスカヤ)通りの石畳道路、秋林百貨店、松花江(スンガリ)の鉄橋は、昔のままでした」 「寺田さんはどうして満蒙開拓青少年義勇軍に応募されたのですか」 いつの間にか横で聞いていた高木先生が尋ねた。 寺田さんは、少しはにかんだ。

 「主人はね、当時の一中の試験に落ちたんですよ。それでね、そうでしょ、あなた」 寺田さんの奥さんが代わりに語ってくれた。「僕はね、合格すると思っていた一中の受験に失敗して、仕方なく私学へいったんだけど肌があわなくってね。生きているのが嫌になり、いっそうのこと広い満州に行こうと思って応募したんです」 寺田さんは、今でも悔しそうに語った。

 「バスがでます」 と添乗員の禹さんの声がして、私たちはバスに乗りこんだ。

 この日、午後は高木先生の発案で、平房の七三一部隊跡を見学したり、東北抗日烈士記念館に行った。

 無学な私にはそれがどんな意味を持つのかわからなかった。しかし、私たちは当時「満州国」が「五族協和・王道楽土」といわれるのを信じていた。でも、日本がとんでもないことをしていた事を知った。開拓団や私のような者を、「鍬の戦士」「大陸の花嫁」と囃し立てて送ったことが、中国の人に大変な迷惑をかけたんだなと今になっておもろげながらわかってきた。

 夕方、夕食を食べに行く時だった。 「安田さん、花園小学校跡を通りますからね。現在は、軍の施設になっていて、写真を取ったり、バスを停車さすことができません。バスはゆっくり走りますから、よく見てくださいね」と、添乗員の禹さんが言ってくれた。

 「花園小学校・・・・・」
 五十年前のその時の記憶もしだいに薄れかけていたが、それでもこの名前を聞いただけでも、私には身の毛がよだつ思いがする。

 私が、若い高校生に自分の苦労話をしておこうと思った動機は、私に衝撃的な映像が過去の記憶を蘇らせたからだと思う。

 一九九五年一月十七日午前五時四十六分。 そう、あの阪神・淡路大震災であった。ビルの倒壊、長田地区の火災、壊れた家屋から救出される人、ガスも水道も止まって避難所になった体育館で身を寄せる家族。一月下旬の寒さ、インフルエンザの流行。一瞬のうちに神戸の街が廃墟となり、余震におびえ、寒さに震え、炊き出しを待つ。不安な子どもや老人の顔。すべての生活の基盤を失った夫や妻の明日への生活不安。 私は、あの映像をテレビで見ていて、あの時の自分を思い出した。

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 日本敗戦後の昭和二十一年三月末、満州の厳しい寒さもようやく終わり、春の訪れを迎えていた。

 ソ連軍の命令で、日本人は哈爾濱に行けと言われた。七台河の部落から出て何万人もの日本人が約三百キロもある哈爾濱に歩いて移動した。私らは、約百人単位で、各地の中国人宅に泊めてもらい、時には野宿しながら、満州の地平線に太陽が沈むようなとうもろこし畑の続く黄色い道をひたすら歩いた。息子の勝を失って傷心の状態で、夫の所在も生死すらわからぬまま歩き続けた。哈爾濱に到着したのは、昭和二十一年の四月中旬であった。哈爾濱では、元日本人学校の花園小学校が収容所になっていた。そこには、開拓団員や満蒙開拓青少年義勇軍や関東軍だった人、満鉄関係の人など満州全土から日本人が集められていた。「花園小学校」と名前の響きはいいが、そこが第二の地獄になった。

 共同炊事の炊きだしの高梁粥は、そこに住む人の下痢や栄養失調を助長した。力の残っている男性は、国民党軍の仕事を手伝ったり、中国人のもとに手伝いに行ってその日その日の食いぶちを得ていた。ほんの半年前まで満州全土で見られた日本人と中国人や朝鮮人との関係は逆転していた。そして、働けない老人や病人、お腹の大きい妊婦や赤ちゃんや子ども、子連れの女性などの弱い立場の人から、弱っていった。それに追い打ちをかけていったのが、発疹チフスであった。次々に弱った人から襲っていった。

 花園小学校の三階建の教室のコンクリ−トの床は、とても冷たかった。毎日多くの日本人が死んでいった。校庭に掘られた穴の中にむしろに巻いた死体が掘り投げられ、翌朝には中国人が大八車に乗せて持っていった。

 そんな中で、東安省宝清県第十次大主上房開拓団の恵比寿郷に住んでいて、ともに生死を共にしながら逃避行を続けて来た定森さん一家や、時岡さんの家族も発疹チフスでここで全員死亡した。

 ここでも栄養失調や発疹チフスで苦しむ赤ん坊を、暖かい部屋で食べ物・薬のある中国人の所へ泣く泣く預けた日本人の女性も多くいた。あるいは、中国人の夫婦がやってきて、「赤ん坊を売ってほしい」 と、言ってこられ、生きていくために手渡した。また、子どもの薬代や食べるものを得るため、生きるために決心して中国人と結婚した女性も周囲で見た。

 こうして、ここでも数多くの残留孤児や残留日本人女性が生まれた。 私も、一時は哈爾濱の陸軍病院で働いた。そこは国民党軍の病院であったが、途中から八路軍の病院にとって代わるなど混乱の中で長続きはせず、毎日の食べることに事欠く状態が四月中旬から八月まで続いた。

 この時、私は栄養失調となり生死をさまよう地獄の日々だった。ただ、哈爾濱で、本部の神部さんから「数ヵ月前、ご主人があなたを捜しに来て、奥さんを見つけられなくて奉天に向かった」と聞き伝えがあった。「あんた、もう一度助けに来て・・・」と心の中で何度も叫んだ。ここ哈爾濱で再開した家族もあった。今思えば、この時、私が助かったのは息子の勝が死んでくれていたからだと思う。もし、勝がいたら私も勝も共倒れになっていただろう。私は、七台河部落を出発して以来、藤井敏江さんや佐藤初子さんの三人で肩を寄せあって暮らしていた。敏江さんや初子さんも、開拓団にいた時は指導員の妻で何不自由なく暮らしていた。人間は、どん底に落ちて性分が出る。敏江さんは、哈爾濱の街で大八車を押すのを手伝いながら、ちゃっかり車の作物をポケットに入れたり、私と初子さんに中国人の店の主人と話をさせておいて、いつの間にか商品を手にしていた。私は、どうしてもできなかったが、敏江さんの上手な盗みで私たちのお腹が潤った。しかし、それは、一時的なことで栄養失調の根本的な解決にはならなかった。当時、私は子ども服が着れるぐらい痩せていた。

 昭和二十一年九月、私たちに思いがけない援助の手が差し伸べられた。哈爾濱に住んでいる有力者で日本人の有志が花園小学校の惨状を知って援助してくれた。中でも、岡山県の英田郡出身の人が、岡山県人会を作ってくれて、岡山県出身の人を特別に助けてくれた。私も栄養のある肉饅頭やお粥など食事を食べさせてもらい、少し元気になった。

 十月になって、私は次第に健康を取り戻した。私は、早く帰りたい一心で哈爾濱から錦州まで約六百キロの道のりを満鉄に乗り、動いていない時には線路を歩いた。

 十二月葫蘆島からアメリカの引き揚げ貨物船に乗って帰国できた。

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 私は、バスの中で定森さんや時岡さん一家の冥福を祈った。しだいに、涙がとどめもなく流れていった。若い学生の鈴木玲子さんが背中をさすってくれた。 慰めてくれているはずの玲子さんまでが、貰い泣きをしていた。 こうして、哈爾濱の夜はふけていった。その晩は、夜行列車の疲れもあってか、ぐっすり眠った。


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