『悲劇の大地』 第4章


 翌朝、私たちの一行は、小型のマイクロバスに乗換えてまず方正県へ向かった。

 方正県は、哈爾濱から東へ百八十キロあった。がたがた道で私たちの体が何度も左右上下に揺れた。白樺の街路樹がどこまでも続き、道端では瓜やすいかを売っていた。見渡すかぎりのとうもろこし畑、大豆畑が地平線のかなたへ続く。河を越える橋を渡った後、時々集落が現れる。商店や飯店があり、郷の人民政府が中心地にある。ものの五分を走ると、また元の風景に戻る。牛がのんびり草を食べていた。

 昼過ぎやっと方正の町に着いた。昼食後、方正県の東郊外にある日本人公墓へ行った。 中日友好園林に到着して、開拓団や義勇軍を日本で一番多く送り出した長野県が昨年の戦後五十年記念に建立した和平友好の石碑にお参りした。その後、左奥手にある日本人公墓に献花し、記念植樹を行なった。右奥手にある中国養父母公墓にも墓参し、それぞれ献花を行った。

 四時過ぎに方正県人民政府を表敬訪問した。 劉副県長の挨拶があった。 「日中戦争は、中国だけでなく、日本人民にも大きな災厄をもたらしました。方正県には戦後日本人孤児や婦人四千二百名が残されました。中国人も貧しかったが、保護をし引き取って育てました。残留孤児を育て、残留婦人は結婚して円満な家庭を作りました。日本の侵略は、両国に大きな被害をもたらしました。方正県は、一九六三年に周恩来首相の許可を得て、死んだ日本人を祈念して日本人公墓を建てました。これは、日本人民と日本の軍国主義者をはっきり区別する中国政府の政策を示しています」

 挨拶はこの後も続いたが、途中この挨拶を聞いて私は「五十年前に私もここを通った」と、ふと思い出した。

 昭和二十一年三月末、ソ連軍の命令で、何万人もの日本人が哈爾濱に向かって歩いた。私は、半年もお世話になった七台河の部落から出て約三百キロもある哈爾濱に移動した。確かにその時、方正県に立ち寄ったという記憶がかすかに蘇ってきた。丁度移動の中間点にあたる方正県で一週間ぐらい停泊することになった。食料難や病魔で死亡者が続出した。また生き残った者も病気に冒され、飢えていた。わずかな食料と引換に、泣く泣く中国人に乳飲み子を手渡しているのを見た。また病気になった子どもを助けるために中国人と結婚した残留日本人女性がいた。私は、この時同じ開拓団で暮らした敏江さんや初子さんと一緒であった。敏江さんも初子さんも大茄子訓練所で子どもを手にかけていた。希望も何もないただ生きているだけの存在だった。

 私は、逃避行の最中に、腹巻の中に入れていた財布と通帳をなくしていた。私たちは、初子さんがこの日まで襟の中へ縫い込んでいた百円札で三人分の食べ物を買って食べた。初子さんの持っていたお金と好意で今の私がいる。

 有漢町の高橋町長の挨拶が始まった。 「ニイ−ハオ。お忙しい時にもかかわりませず、私たち一行を、熱烈に歓迎していただきましたことを御礼申し上げます。まず、それに先立ちまして申し上げたいことがあります。それは、先の大戦において、日本が中国に対して『侵略』し、中国人民に多大のご迷惑をおかけしたことを心より謝罪したいと思います。さて、私たちの今回の旅行は・・・・」

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 高木先生が訪ねて来られたのは、昨年の暮れだった。

 「安田さん、来年の夏に私たちと開拓団の跡地を訪ねてみませんか。城山さんら開拓団関係者だけでなく、私の教え子も参加します。単に開拓団を訪ね、慰霊の旅にするのではなく、日本と中国の友好をはかる旅にしましょう。それに、岡山県や大主上房開拓団を出した上房郡にも職員の参加を呼びかけて、岡山県を代表して行きましょう」

 私は、七十三歳、夫は七十九歳、城山さんでも七十六歳、一度開拓団の跡地を訪ねてみたい気持ちはあったけど、日頃の忙しさであきらめていた。その上、もう歳だし、夫は足が衰えてひょこひょこ歩いているしだい。さらに、軽い糖尿病に前立腺肥大に神経痛と最近は病気が友達のような状態である。私とて持病である腰痛があって、若い人と一緒に長い旅ができるどうかまったく自信がなかった。最初、高木先生がそう言って来られた時「自信がないから」とやんわり断った。城山さんに電話しても、「わしは隠居の身だから、自由になる金がない」と言っていた。

 しかし、高木先生は二度目に教え子さんを連れてやってきた。 「安田さん、私たちが荷物も持ちますし、一緒に行って下さい。私たち、来年きっと大学に入ります。今まで満蒙開拓団のことを教えてもらいました。そのことをこの目で実際見てきたいんです。だから、一緒に連れて行って下さい」

 しっかりした高校生の鈴木玲子さんが私の手を握って熱心に誘いかけた。

 「僕らは戦争で何があったか知りません。若い僕らに、満州で何があったか、その場で教えて下さい」

 横田君という目のくりっとしたかわいい高校生が、泣きそうな感じで呼びかけてきた。「私がこんなことを言うきっかけは、安田さんのご主人が手記の中で書かれている『大主上房開拓団の跡地に松の苗木一本でも持っていきたい』というあの言葉です。それに、城山さんのお嬢さんや、安田勝君が亡くなられて今年で五十年が経ってます。五十年の法要に少し遅れますが、来年の夏遅ればせながら五十回忌をしませんか」

 高木先生の言葉は私の胸に付き刺さった。勝の五十回忌といわれて、親として心が動かないはずがなかった。

 「よし、行こう。勝の五十回忌の供養もあるしのう」 と、言ったのが、夫だった。

 私も、若い学生さんの熱意に打たれた。もし、行けるとしたらこれが最後の機会かもしれない、とも思った。

 それから、高木先生に乗せてもらって岡山県庁や賀陽町、有漢町、北房町に何度も足を運んだ。

 高木先生が私たちのことを書いた本を持って、精力的に働きかけて今回の旅が実現した。岡山県から土井県議が参加してくださることになった。土井県議は、自分の同級生が満蒙開拓青少年義勇軍に参加して多く亡くなったから、という動機を語って参加してくれた。また、夫安田二郎の出身地である有漢町からは高橋町長と花田町会議長が忙しい中を参加してくださることになった。高木先生の熱意が高橋町長の心を動かせた。

 夫は、最後まで行きたがったが、結局最後に旅行を断念した。開業医に相談した結果、ドクタ−ストップがかかったからだ。

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 「今後とも、より、日中友好と両国の平和を願って、挨拶に代えたいと思います。シェイ・シェイ」

 高橋町長の挨拶に、劉副県長をはじめ、方正県人民政府の幹部に人たちが立ち上がって、大きな拍手をしてくれた。

 その夜の夕食後、街を散歩した。夏の方正県は、メインストリ−トに夜店が多く出ていた。冷たい飲み物やお菓子を売っていた。すいかや黄色いまくわ瓜をリヤカ−いっぱいに積み上げて売っていた。色とりどりの服や生地が所狭しと並べられていた。

 私は、山本さんと二人で歩いていた。

 「日本の方ですか」 落花生を売っている年配の婦人が、たどたどしい日本語で尋ねた。私より老けてみえたけど、目を見るとまだ、若い感じもした。
「はい、そうですが」
「わたしは、残留孤児です。八歳の時こちらの養父母に預けられました。日本の両親は、山形県出身だったそうです」
「日本語わかりますか」
「ええ、少し勉強しました」
「日本へ戻られたことはあるんですか」
「一度だけ一時帰国で、山形県に行きました。両親は満州で死亡していました。叔母がいました。でも、叔母は日本でも貧しかった。それに、永住帰国を考えましたが、養父母を置いて私だけ日本に帰れなかった」

 その女性は目にいっぱい涙をためた。 私には、その女性と自分が重なりあって見えた。あの時帰れなかったら、ここへ私がいる、と思うと急に涙がこぼれた。 「落花生一袋、いや二袋下さい」 「はい、一つ六元ですから十二元です」 私は、二十元渡した。 「おつり、八元です」 「気持ちです。おつりはいいですから」

 おつりを払おうとする老婦人を手で静止し、私たちは逃げ去るようにホテルに戻った。

 ホテルの部屋の中で、いつまでも夜店の婦人の澄んだ目が焼きついて離れなかった。


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