『悲劇の大地』 第5章 |
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方正県の郊外は、豊かな田園地帯が続いていた。中国東北部の中でも黒竜江省は、日本人佐藤さんの指導の下で最近米作が盛んで年間四百万トン以上も収穫がある。しかし、車の窓から一面に続く水田風景は、この方正県付近だけだった。
車は、がたがた道を砂煙を撒きながらすごいスピ−ドで走った。道のくぼみがあるたび車も私たちの体も左右前後に大きく揺れた。 すれ違う車は、最新の日本製RV車やドイツ製の車があるかと思えば、ゆっくり走るトラックタ−の荷台に鈴なりの人が乗っていた。また馬に荷台を引かせて、家族がのんびり道行く光景が見られた。百年前と現代が同時に進んでいるような錯覚を覚えた。
勃利の街に着いた。勝が死んだ街だった。街の中を私たちを乗せたバスが走ったけど、五十年前を思い出すようなものは何一つ見出せなかった。街の中の勃利飯店で昼食を取った。昼食場所に、勃利の人民政府の役人や外事弁公室の人が同席した。恰幅のよい外事弁公室の李さんは流暢な日本語を話した。
高木先生が、近づいてきた。
「安田さん、今しがた外事弁公室の人と話したんですが、安田さんがソ連軍に捕まって収容された勃利収容所は、勃利拘留所としてそのまま建物が残っているそうです。食後にそこへ行ってみるといっています」
「先生、ありがとうございます。先生、一つお願いがあるんです。お線香、お供えのお菓子、お酒などは用意してきたんですが、お花がありません。どこかでお花を用意してくれんかなあ」
「わかりました。用意しましょう」
勃利拘留所は街の中心部にあった。いかにも頑丈そうな歴史を感じさせる建物だった。崩れ落ちそうな瓦、ベ−ジュ色の煉瓦が波を打っている。正面は、鉄の扉がさび付いて堅く閉まっている。門の左に勃利県公安局勃利拘留所の看板がかかっていた。左隣は板塀で囲まれた空地だった。
「中には入れません」 と、李さんが言った。
「この街では花屋はなく、造花しかないのですが・・」
李さんはいかにも作り物の赤や黄色の造花を手渡してくれた。
「安田さん、何か思い出した事がありますか」 高木先生が尋ねた。
「ええ、確かにこの建物だったような気がします。勝は、あの板塀の空地に埋めたような記憶があるんじゃが・・・」
板塀の中には入れなかった。しかし、勃利拘留所の真横の左側に板が割れて、両手が入るくらいの隙間があいていた。
私は、そこに手を伸ばし、小玉すいかぐらいの大きさの石の前に勝の位牌を置いた。小石で土を掘り造花を立てた。山本さんがお線香に火をつけてくれた。日本から持ってきたお米やお菓子を供えた。五十一年目の「五十回忌」の法要が始まった。
私は手をあわせ、「般若心経」を唱えた。この旅に同行のしてくれた人も、「般若心経」を声をあわせて唱えてくれた。
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昭和二十年七月に、大主上房開拓団から現地召集された男の人たちが三十九名いた。夫も、この旅に同行してくれた先遣隊の城山さんも含まれていた。だから、開拓団に残ったのは、老人の男性と妻子だけになった。恵比寿郷では、多田さんの家族、妊婦の森下春江さんと義弟、定森さんの家族、あと私と勝だけだった。男が三名で、女が六名、子どもが十一名で、全員で二十名が残っていた。男手がいなくなったのを知ってか、多数の狼が何度も恵比寿郷の家畜を襲ってきた。私たちが猟銃を撃っても、逃げなくなった。そして、一ケ月後、八月八日の朝、わが家に来ていた苦力の陳さんが、「シベリアから入ってくる道は通れなくなっている」と言った。昼頃、本部から電話があって「治安が悪くなったから荷物を持って本部へ来るように」と、連絡があった。陳さんに家畜を任し、手荷物だけ持って本部に行った。何日かしたら帰れると思っていた。
本部の大本団長からソ連と戦争になった、とその時初めて聞いた。牡丹江方面を爆撃にいくソ連の飛行機が上空を飛んでいくのが見え、私は戦争が始まったことを実感した。もう一度、恵比寿郷に戻って家財道具をまとめて馬車に乗せた。残りの家財道具は家に出入りする張さんや陳さんに与えた。
八月十日、関東軍からの電話があった。
「勃利へむかって避難せよ」
と、強制命令であった。
大主上房開拓団の百六名が午後一時に出発した。長野県出身者がいた小主開拓団に寄って合流し、四日間不眠不休で歩いた。途中、はぐれた避難民の婦女子が合流したり、またついていけない妊婦の人が落伍した。私たちは、恵比寿郷人たちと助け合い励ましあった。 十一日の夜半から降り始めた八月の冷たい雨が、勝を背負った肩のひもを通して食い込んできた。手荷物も雨を吸って倍の重たさになった。
十四日、北星開拓団で一晩休み、食事と休息を取ってから翌日出発した。翌十六日、万竜開拓団に朝方たどり着いた。ここでも無人の万竜開拓団に残されていた食料でみんな一息ついた。「先を急ごう」という大本団長の言葉に促されて、朝八時に出発した。
私たち約百数十名は、出発後約三キロぐらい進んで、なだらかな下り坂の続く長い草の生えている湿地地帯を歩いていた。泥濘でとても歩きにくい所であった。前方左右に小高い山が見えていた。突然、両方の山から銃撃を受けた。最初は満州国軍が間違って撃ってきたと思い、「日本人だ」と叫び、大本団長は日の丸を振った。しかし、その後も攻撃が止まなかった。姿や形からソ連軍だとわかったのはしばらくたってであった。団員の中にも若干の武器はあったがほとんど抵抗らしい抵抗はできなかった。阿鼻叫喚の地獄が続いた。私は草むらの中に隠れた。銃撃が始まった時、私は子どもの勝を背負っていたから、隊列の最後の部分にいたので助かった。
この攻撃で、大主上房開拓団から二十三名が死亡した。合流した義勇隊の人も十数名死んだようだ。この時、城山さんの父である六十三歳の城山良太郎さんも銃弾に当たって死んだ。一時間、いや三十分ぐらいしかたっていないかもしれない。攻撃が終わってソ連兵が五十〜六十名降りてきて、私たち開拓団員を拉致し連行した。逃げようとする者は、女や子どもでも射殺された。
事もあろうに、その時、臨月で八月末が予定日であった森下春江さんの陣痛が始まった。私から数メ−トル離れたところから、その悲痛な声は、ソ連兵の耳に達した。春江さんの出産が始まった。口に白い布をかみ締めてうめいた。春江さんには、ご主人の弟さんがついていた。春江さんのご主人は、現地召集でうちの人と一緒に兵隊に取られていた。
小山から降りてきたソ連兵は、その春江さんの義弟を撃ち殺した。何があったか私からはわからない。私も、勝が泣きはしないかと生きた心地もせず、草むらにかくれていた。
ソ連兵は春江さんが出産用にと持っていたバッグを手渡して去っていた。私は、ソ連兵がいなくなるのを確かめて、春江さんに近づき出産を手伝った。
生まれたのは昼前だった。私が臍の緒をはさみで切った。手持ちの水筒の水と白い布だけの出産だった。 生まれたのは、女の子であった。
「男だったら、満寿男。女だったら良子、とうちの主人が名前を決めて出征したから、この子は森下良子とするわ」 と、春江さんが初めてうれしい顔をした。あとでわかったことだが、私のように草むらに隠れていて生き残ったいた女と子どもが七名いた。その日の夕方に集まって万竜開拓団に戻った。
万竜開拓団で三日間過ごした。しかし、春江さんの産後の肥立ちが悪くなった。頼りにしていた義弟のが目の前で撃ち殺され、不安と恐怖の中で出産した春江さんに精神的な障害があらわれた。
わめくように夫森下俊一さんのことを呼んだり、真夜中に義弟の雅晴さんを捜しに行くといったりして困らせた。
良子ちゃんは、春江さんのおっぱいを吸うが春江さんの乳はでなかった。狂ったように泣き叫び、出ない乳首を噛んで困らせた。ますます、春江さんはいら立った。
三日目の夜、春江さんに良子ちゃんの首を絞めるから手伝ってほしいと頼まれた。「何を言ってんの」と何度も止めたが、春江さんは正気を失っていた。良子ちゃんに紐をかけていた。私も、最後に良子ちゃんがいたら共倒れになると思い止めなかった。 良子ちゃんの運命は三日間であった。
翌朝、私たちは春江さんを勃利の病院に連れて行こう、勃利へ行けば助かるかもと思い白旗をかかげて歩いた。約二キロも行かないうちにソ連兵に見つかった。トラックに乗せられて元の監獄であった勃利の日本人収容所に入れられた。ここにも各地から集められた日本人が数千人いた。
赤い高梁粥ぐらいしかでないほど食料は不足していた。ここに入れられて、一週間ぐらい経った頃、背負っていた勝が高熱をだし、痩せ衰えて栄養失調で死亡した。ソ連軍に手当を頼んだが、言葉も通じなく相手にしてもらえなかった。
九月一日であった。 勝は、たった九ヵ月の命であった。
八月十日からの逃避行が始まって以来勝は冷たい雨に打たれ、私の背中で栄養失調・下痢・発熱が続いていた。薬といっても何もなかった。野草のげんのしょうこを飯合で煎じて飲ますぐらいしかできなかった。食べ物も生米を口で噛んで口移しでやるぐらいしかできなかった。乳も止まっていた。勝は、しだいに衰弱して死んでしまった。顔は年寄りのように皺がよって、腹が膨らんできた。私はソ連兵に頼んで勃利収容所の側の畑に埋めさせてもらった。
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「菩提薩婆訶 般若心経・・・・・・・」 私たちの読経が終わった。白いお線香の煙が空中に舞った。
勝の法要が出来た感慨と、当時の事を思い出し、私は泣いていた。
ふと、バスに戻ろうかと思って振り返ると百人ぐらいの中国人が私たちの行動を見守っていた。
勃利の人民政府の役人や外事弁公室の李さんが民衆に解散しろという手振りをして、私たちに早くバスに乗るように声をかけた。バスに乗る時背中に痛い視線を浴びているのを強く感じた。私の息子の勝の法要は、私の心の慰めにはなったかもしれないが、中国人の心を逆撫でしたのかもしれない、と思った。 私の感傷と感慨は、いつの間にか後味の悪いものになっていった。
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