|
諸御用日記 |
3諸御用日記(猫塚家文書)
祖先は秋田の阿仁銅山の鉱山技術者といわれている。農業土木関係の技術をもって現花巻市笹間に居を構え盛岡藩に仕えた。穴堰・川除(かわよけ)(堤防川底さらい)等新渡戸新田開発の技術面で活躍している。
原本は花巻新渡戸記念館に文化2年(1805)から慶応3年(1867)迄30冊、解読文として花巻市博物館に28冊保存されている。
諸御用日記(三) 文政五年
公私御用留
壬午正月吉辰
二子通御代官 松 田 伊之助
新田目 作 内
同下役 久 慈 野 助
小 館 幸之助
□□□□ 中里 判左衛門
及川 勇右衛門
□□役 磯 地 十 蔵
高杉 新左衛門
上堰見分三月廿八日御代官松田伊之助殿・黒沢尻通御代官及川勇右衛門殿下役高杉新左衛門・竹村圓右衛門□□□并古人村崎野村久之□□□喜六・同村肝入喜左衛門□□□肝入新助・横川目村宿又左衛門翌廿九日晴、後藤堰見分後藤村肝入忠蔵昼宿翌日竹村圓右衛門宅ニて目論見いたし古人共より出末書ニて差出ス
四月四日取付同廿一日迄日数十八日割合被 仰付
一 四月四日後藤村笹長根弥兵衛宿同六日蛭川又左衛門へ移ル
一 同七日 晴
一 同八日 雨降
忰忠之進官処より見習来
此日沢内薬師参詣大増通ル
古人弥兵衛去年病死ニ付、一子無之弟喜六ト申者跡役被仰付、此年初て御普請御用相勤ル
一 同九日 晴天
白石弾正無調法有之身帯之内三ケ一御取上之由承ル
同十日 雨風
同十一日 風
同十二日 晴
覚
一 伝馬 弐疋
右之通十兵衛申付候、已上
四月六日 両人 □
後藤村肝入忠兵衛殿
同十三日 晴
同十四日 晴 此日尻平川留□申候
同十五日 雲
菱内三郎右衛門宅へ引移
同十六日
同十七日 雨風此日人足
同十八日 大風
同十九日 晴天
同廿日 晴天
同廿一日 晴
上せき御普請済
差急之御用有之候間、差紙参着次第早々相詰□□□□
四月廿一日 新田目 作 内
松 田 伊之助□
猫 塚 彦四郎方
一 同廿二日 晴
御官所へ罷出候処左之通
松田伊之助申達は
二郡中川除并用水御普請奉行被 仰付、尤右勤中二子通御給人格被 仰付、右御目付御用状写左之通
一筆令啓上候、御支配所中使猫塚彦四郎花巻二郡中川除并用水御普請奉行被 仰付、右勤中二子通御給人格被仰付候段此旨可被仰渡、右申入候、已上
四月十九日 小向 周右衛門□
松 田 伊之助 殿
新田目 作 内 殿
右御用状御証文箱入置
一筆令啓達候、然は二子通御代官処成田村北上川筋早房と申所御普請被成下度旨御百姓共願出候ニ付、花巻二郡中御代官見分之上絵図面并仕様積差出、右見分之上仕様之儀被仰付候、早々見分積可被差出候、右申入候、已上
四月廿日 杉村 甚左衛門
下斗米 勘 蔵
北 村 清 助
栗谷川伊右衛門○
岡田 金左衛門
工藤 恭右衛門
竹村 圓右衛門 殿
猫 塚 彦四郎 殿
猶以仕様積之義は銘々差積印封ニて可被差出候、尤心付候儀も有之候ハヽ是又差積可被差出候、已上
同廿六日 晴 成田村見分竹村圓右衛門立合銘々心付付目論見同廿七日差出ス
一 千八百九十人三分五り乞
外ニ
一 三拾五人 小屋懸ケ人足
一 廿壱人 小屋番 弐人
右は日数七日分一日壱人ニ付壱人五分宛
〆五十六人
惣〆千九百四拾六人三分五り
右之通御人足積書上仕候、已上
四月 猫 塚 彦四郎
御勘定所
外木品細割帳面ニて申候
去ル廿日付御状昨廿二日相達拝見仕候、然は二子通御代官処、成田村北上川筋早房ト申処、御普請被成下度旨御百姓共願上候ニ付、花巻二郡中御代官見分之上絵図面并仕様積差出申候ニ付、右場所絵図面ニ向見分之上仕様之儀被仰付候ニ付、早々見分仕様積差上候之様御沙汰之趣承知仕候、右為貴報如此ニ御座候、已上
四月廿三日 猫 塚 彦四郎□
竹村 圓右衛門○
御勘定所
猶以仕様積之儀は銘々差積印封ニて差上候様、尤心付も御座候ハヽ是又差積差上候様承知仕候、已上
目論見へ之添状左之通
一筆啓上仕候、然は先頃御沙汰御座候、二子通成田村北上川筋
早房と申所御普請被成下度旨御百姓共願出候ニ付、見分之上仕
様積書上可仕旨、尤心付も有之候ハヽ差積銘々印封を以差上候
様御沙汰ニ御座候間、見分之上別帳仕様積并絵図面共ニ差上申
候、尤御渡之絵図面ハ竹村圓右衛門より差上可申候、右可申上
如斯ニ御座候、已上
四月廿七日 猫 塚 彦四郎
御勘定所
見分之節御代官へ左之通申遣ス
一筆啓上仕候、然は成田村北上川筋之内早房御普請所御百姓共
願出候ニ付、各様御立合御見分之上仕様御人足積被仰上候由、然ル所右場所絵図面ニ向見分之上仕様御人足積差上候様御勘定処より御沙汰ニ御座候、右ニ付明後廿六日見分致度間其筋御沙汰被成候様致度候、右可得御意如此御座候、已上
四月廿三日 猫 塚
竹 村
松 田 伊之助 様
新田目 作 内 様
五月二日 初田植
御用有之候間、上下着用最早御上り可有之候、已上
五月二日 新田目 作 内
松 田 伊之助□
猫 塚 彦四郎 殿
御書替御証文頂戴左之通
現米三駄弐人扶持高〆拾八石地形三拾五石九斗九升五合都合五拾三石九斗九升五合被下来候所、其方儀花巻二郡中川除并用水御普請奉行被仰付、右勤中二子通御給人格就被 仰付候、改証文遣候、御軍役可被相勤者也
文政五壬午歳四月十九日
楢 山 主 膳□
藤 枝 宮 内○
八 戸 上 総□
在江戸 毛馬内 典 膳
南 部 勘解由○
南 部 九兵衛○
二子通御給人格 猫塚彦四郎殿
弐人扶持猫塚彦四郎花巻二郡中川除并用水御普請奉行被仰付、右勤中二子通御給人格就被仰付候、当月十九日より毎月大小差引小手形取御米相渡可被申也
文政五年四月 主 膳□
宮 内○
上 総□
勘解由○
九兵衛○
中野 牧人 殿
花巻新御蔵 玉山忠右衛門殿
五月十日
御入部御礼冥加御礼盛岡出府御代官へ右願差出ス
同十三日
御勘定所へ御呼出シニて罷出候処、御勘定奉行北村清助申達候ハ竹村圓右衛門共ニ罷出、今度二子通之内成田村早房御穀船通用差支ニ付、御普請願出候ニ付各両人御代官より仕様積差出シ候、然ル所彦四郎積方宜ニ付同人積被 仰付候、乍去此度は両人揃相勤候様被 仰付候、尤格別思召を以被仰付候間、心ヲ用ひ勤仕候様達シニ御座候、右仕様帳木品御切手受取申候
一 千九百四拾六人三分五厘 成 田 早 房
□□ 元
一 雑元木三百九十一本
尻平川入御山より
口上之覚
私共儀花巻二郡中川除并用水御普請奉行被仰付候ニ付、左之通奉伺候
一 諸御普請御代官へ願出候得ハ私共へ見分立合之儀懸合可有御座節々不申上直々立合見分仕、仕様御人足積差上候て可然哉
御附札 御代官より御勘定処へ願出候ハヽ御勘定処より御用状を以御沙汰次第遂見分仕様積差出可申事
但、御代官へも見分之上仕様積差出候様於沙汰可被成候事
一 御普請被 仰付取付之節、日限御訴申上、出来栄之節ハ御代官
へ懸合、立合得見分候上御訴仕度、此段御代官へ御沙汰被下度
奉存候
伺之通
但、右之趣意兼て御代官へ御沙汰可被成置候事
一 御普請中御用状差立候節は其場懸り御代官所より差立申度、不
断御用向も二子通鬼柳通御代官所より差立申度奉存候
伺之通
一 伝馬御証人已前二郡中御普請下奉行勤中も御郡代より定御証文御渡被下候、今度も御渡被下度奉存候
御附札 御伝馬御証文は爰元より御渡被成候事
一 御普請見分出来栄共ニ宿賄切手差置申候、此度ハ如何可仕哉、尤御普請所勤中上下申候、雑事銭御村割ニて御代官所より受取申候、此度は如何可有御座哉奉伺候
御附札 御普請中御賄代雑事代共ニ一日百文宛被下置、尤御普請願出候御代官所より御渡被成候様於沙汰可被成哉
但、右之趣は御代官へ為御心得可被成事
一 御普請大小場ニ不抱見分御普請共ニ私共両人相揃詰合相勤候仕
度奉存候
御附札 小場御普請之儀は手寄之方壱人ニて相勤可申候、大場之儀は両人持相勤可申事、尤小場ニても殊ニ寄両人へ被 仰付候儀も可有之候事
右之通奉伺候、已上
五月 竹村 圓右衛門○
猫 塚 彦四郎□
御勘定所
御勘定奉行北村清助へ差出候処、五月廿八日御附札御下ケ有之、尤御証文御渡有之候
伝馬壱疋二子通勤中御給人格猫塚彦四郎花巻二郡中川除并用水御普請奉行勤中度々往来可相出也
文政五年五月 主 膳 □
宮 内 ○
上 総 □
勘解由 ○
九兵衛 ○
花巻二郡中村々馬継
一筆令啓上候、然は花巻川原町町屋敷之内、槇木積場所御普請処、先頃御城代より仕様積差出候ニ付、為御引合八幡寺林通・万丁目通・安俵高木通御代官へ見分之上仕様積被出候様申達候、猶又各へ見分之上仕様積被仰付候、御城代持之御場所并御代官持之御場所共ニ別々ニ差積可被差出候、右之趣は御城代へ申越置候間、ケ処等之儀は其筋問合行違無之様見分差積可申候、右申入候、已上
六月四日 田鍍 市左衛門
杉村 甚左衛門
下斗米 勘 蔵
北 村 清 助
栗谷川伊右衛門
岡田 金左衛門
工藤 泰右衛門
竹村 圓右衛門 殿
猫 塚 彦四郎 殿
右之通六月六日二子御代官処より相達候間、翌七日竹村へ差遣申候
一筆致啓上候、然は御勘定奉行中より花巻槇木場処并万丁目通御官所持御普請見分之上仕様積差出候様申来候間、則差遣申候、随て明八日未明其筋懸合御立合見分之上仕様積差出申度、此段御問合可得御意如此御座候、已上
六月七日 猫 塚 彦四郎
竹村 圓右衛門 様
尚々二子通御官所ニ御待合可申候、御勘定所御返書則別紙ニ相認差越申候、不宜処は御直し御出し可被下候、此段御頼申上候、已上
去ル四日付御状昨六日相達拝遣仕候、然は花巻川原町町屋敷之
内槇木積場所御普請先頃御城代より仕様積差出候ニ付、為御引
合八幡寺林通・万丁目通・安俵高木通御代官へ見分之上仕様積
差出候様被仰付候、猶又私共へ見分之上仕様積差上候様被仰付
候趣承知仕候、尤御代官持之御場所共ニ別ニ被指積差上候様、
右之趣御処之儀は御城代へ被仰遣候ニ付、其筋問合行違無之様
見分仕、差積可申旨承知仕候、右為貴報如此ニ御座候、已上
六月七日 両人
御勘定処
御支配所御給人格猫塚彦四郎御給人格成御礼願之通、来ル廿七日寅ノ刻御礼被為受候間御中丸御鑓懸之間へ上下着用鳥目持参、各之内壱人召連御詰可被成候
五月廿五日 高 野 織 江○
松 田 伊之助 殿
新田目 作 内 殿
其御支配所御給人格猫塚彦四郎、来ル廿七日寅ノ刻後御礼被為請候間、御中丸御鑓懸之間へ上下着用各内壱人召連御詰可被成候、已上
五月廿五日 高 野 織 江
松 田 伊之助 殿
新田目 作 内 殿
猶以明八ツ時より御礼稽古被仰付候間、為相詰可申候事
一 同廿六日稽古、翌廿七日寅ノ刻相詰両度御礼首尾能相済直々御席詰南部弥六郎殿・南部九兵衛殿・南部勘解由殿・八戸上総殿・藤枝九内殿・毛馬内典膳殿・楢山主膳殿
私儀今度二子通御給人格 右手札持参廻勤御代官
御給人格成御礼申上候、 新田目作内様御召連
猫塚彦四郎義□□□申上候
一筆啓上仕候、然は先頃被仰付候、萬丁目通豊沢川筋花巻川原町槇木積場所欠込候ニ付、御普請請仕様見分之上差積差上候様被 仰付、随て所等其筋問合行違無之様可仕旨御沙汰ニ御座候間御町奉行へ懸合候処、小野寺又作立合申候間箇処不残承候て別紙絵図面之通仕様御人足積相認、尤万丁目通御代官所持之場所と弐帳ニ相認差上申候、右申上度如斯ニ御座候、已上
六月十日 猫 塚 彦四郎
竹村 圓右衛門
御勘定処
一筆啓上仕候、甚暑ニ御座候得共、弥御安泰可被御勤珍重之事
奉存候、然は此間御沙汰御座候花巻川原町真木積場御普請所、昨九日見分仕万丁目通御代官処持之場所ともニ絵図面御人足積御帳ニ相調差上申候、不少御人足高ニ御座候得共、新川留切之方念入不申候得ハ根〆ともニ相保兼候様相見得申候、新川留切相保候得ハ根〆之方ハ一躰繕計ニても宜御座候、当時新川口至手高ク相成候事故堀込留切ともニ格別御人足高ニ相成申候、此段御内々申上候、御含盡被仰上被下度と頼上候ハヽ右御内々可御意如此御座候、已上
六月十日 両人
栃 内 泰 助 様
奥 津 茂 市 様
右御用状御町奉行へ遣
一 六月十五日晴 成田村清原宿ニて竹村圓右衛門此等世話方三太郎江釣子善蔵相詰ル
一 千九百四十五人三分五り元
一筆致啓上候、然は此元成田村早房御普請入様木品尻平川村尻平川御山ニて御渡被成候ニ付、御切手御勘定処御渡被成候間差越申候、右ニ付明十七日より剪為出申度候間御渡被成候様致度候、右可得御意如此御座候、已上
六月十二日 両人
久 慈 野 助 様
小 館 幸之助 様
弥御安泰被成御勤仕珍重事奉存候、然は別紙を以申上候通、此
元御普請入用之木品此元ニて手合仕相用申候間、表向ハ御渡被下候積ニ御取計被下度候、雑木乱杭ニ相用申候事故、夫々手合も相成申候、此段御内々御問合申上候、御差支も無御座候ハヽ右様ニて相済申度候、右御内々可得貴意如此御座候、已上
六月十二日 両人
野助様
一 此年大日照ニて二子村□澤懸り十二日昼夜通し水
一 十七日ハ道覚坊堤懸り江通し水一日
一 同十八日 晴
六月十八日相達候御用状左之通
一筆啓上候、甚暑之刻弥御安康被御座珍重之御儀ニ奉存候、此元拙者共無事相務罷有候、御安意可被下候、扨此間御勘定奉行中より御用状を以被仰遣候花巻川原町槇木積場御普請処見分之上仕様積帳被差出候、至極絵図面之趣ニて宜敷相見得申候、猶又御城代より差出候絵図写取差越申候間、右絵図ニ向仕様人足積拙者共迄被遣被下度奉存候、御城代より差出候積帳は右図面之ケ処仕様共致候間、御取合積候之事ニ御座候間、先頃被差出候ケ処積共ニ御引合候は相成不申候間、早々差積被差出候様致度候、尤御印形は御用ひ被成候様致度候、右可得御意如此御座候、已上
六月十六日 奥 津 茂 市□
栃 内 泰 助□
両人様
尚々乍内状印形相用ひ申候
御状致拝見候、甚暑ニ御座候得共弥御安康被成御勤仕珍重之御儀ニ奉存候、拙者無事罷有候間、御安意被下度候、扨此間御沙汰御座候花巻川原丁槇木積場御普請所見分之上仕様積帳差上申候処、御城代より被差出候仕様積へ御引合御差支ニ付絵図面御写被遣、右ニ向御人足差積各様迄差上候様被仰遣、附札ニ向別帳之通御人足積相調差上申候、尤間数ハ附札ニ御座候得共和工高サ幅并乱杭ともニ何尺と申処相知レ不申候、間幅尺ハ相違可申、此段御承知被下御引合御覧可被下候、且印形相用ひ候様被仰下候間、例之通相認印形いたし差上申候、右御報旁可得御意乍内状是よりも印形相用ひ如斯御座候、已上
六月十八日 両人
栃 内 泰 助 様
奥 津 茂 市 様
二子通ヨリ立ル、此状同役遣す
十九日 晴 御状左之通
一筆令啓達候、然は八幡通御代官所北上川筋好地村之内川並不宜自然と水向石鳥谷町裏へ突懸人馬通用差支ニ相成御百姓共迷惑仕候ニ付、御普請被成下度旨願出候之間、御代官得立合、各見分之上仕様人足積差出候、尤御代官へも仕様積之儀申達候間仕様并箇処共ニ行違之様差積可申候、右申入候、已上
六月十七日 田鍍 市左衛門
杉村 甚左衛門○
下斗米 勘 蔵
北 村 清 助○
栗谷川伊右衛門○
岡田 金左衛門□
工藤 泰右衛門
竹村 圓右衛門 殿
猫 塚 彦四郎 殿
猶以仕様人足積之儀は当人より別帳ニ相認差出可申候、已上
此状竹村氏預
御状拝見仕候、然は八幡通御代官所北上川筋好地村之内川並不宜自然ト水向石鳥谷町裏へ突懸人馬用差支ニ相成、御百姓共迷惑仕御普請被成下度旨願上候ニ付御代官得立合見分仕、仕様人足積差上候様、尤御代官へも仕様積之儀御沙汰被成候ニ付、仕様并箇所共ニ行違無之様差積可申旨御沙汰之趣承知仕候、右貴報申上度如此御座候、已上
六月十九日 両人
御勘定処
猶以仕様積之儀は私共より別帳ニ相認指上候様御沙汰ニ御座候、私共見込銘々仕様人足積相調連名ニ不仕、別々ニ差上候儀ニ可有御座哉、此段奉伺候、近日見分之上仕様人足積申上度奉存候、右奉伺候、猶御沙汰被下度奉存候、已上
一筆啓上候、然は御支配所八幡通好地村石鳥谷町裏御普請之儀
御百姓願上候ニ付被仰上候由、右ニ付御立合見分之上仕様人足
積申上候様御勘定処より御沙汰ニ御座候、然ル処此節成田村御
普請処ニ相詰罷有候間、来ル廿四日頃御立合仕度奉存候、右為
御問合可得御意如此御座候、已上
六月十九日 両人
米倉 五左衛門 様
三 上 権 作 様
猶以右見分之儀ニ付御勘定処差急キ御用状差上申候、明朝御立被遣被下度候、已上
御状致拝見候、然は支配所八幡通好地村石鳥谷町裏御普請之儀
御百姓共願上候ニ付、御立合御見分之上仕様人足積申上候様御
勘定処より御沙汰御座候度、然ル所此節成田村御普請請処御詰
被成候間、来ル廿四日頃御立合御見分被成候様御問合被仰遣候
処、明廿日松前御奉行登ニ付、同役今日石鳥谷町へ相詰申候間、
戻り申候ハヽ相談之上右御報可得御意候
一 御勘定処へ差急キ御用状一通差立候様ニて被遣候処一里便り之外差立候儀不相成候間、尤御用状ハ夫より御立被成候様致度候、右御報旁可得御意如此御座候、已上
六月十九日 米倉 五左衛門○
両人殿付
乍御報致拝見候、然は好地村御普請見分之義日限御問合申上候処、御同役様御留主ニ付、御帰之処ニて御相談日限可被仰遣旨致承知候
一 御勘定処へ御用状御立被下候様申上候処、一里便り之外御立被成候様無之旨被候下候、差懸り并不断共ニ御普請地懸り御官処より差立候様伺済ニ付、其御官処へ差越申候、いつれ此間ニ懸御目候節いさゐ可得貴意右御再報旁如此御座候、已上
六月十九日 両人印なし
米倉 五左衛門 様
一筆致啓上候、然は成田村早房御普請来ル廿二日出来栄ニ御座候間、御立合御見分被下度奉存候、右可得御意如斯御座候、已上
六月廿一日 猫 塚 彦四郎
竹村 圓右衛門
三 上 権 作 様
米倉 権左衛門 様
松 田 伊之助 様
新田目 作 内 様
神 匡 様
田 鍍 要之丞 様
中里 利左衛門 様
及川 勇右衛門 様
同廿二日 晴
黒沢尻通及川勇右衛門殿
八幡通下役中村繁
二子通松田伊之助殿・新田目作内殿
外頼合相済
一筆啓上仕候、然は爰元成田村早房御普請今日四御官所御立合出来栄見分相済申候、此段御訴申上候、右申上度如斯御座候、已上
六月廿二日 両人
御勘定所
一筆令啓達候、然は八幡通北上川筋好地村之内川除御普請御百姓共願出候ニ付、見分之上仕様積差出候様先日申入候処、銘々見込積之儀ニも可有之哉之旨被申越候、御百姓共願之趣得共被相越心得ケ所之儀は行違無之様、仕様人足積ハ銘々印封ニて可差出候、御普請仕様之儀は銘々見込考も有之筈ニ候間已後共銘々ニ被心得仕様積差出候様可被致候、右申入候、已上
六月廿一日 田鍍 市左衛門□
杉村 甚左衛門
下斗米 勘 蔵□
北 村 清 助○
栗谷川伊右衛門
岡田 金左衛門□
工藤 泰右衛門
両人殿付
右返書左之通
御状拝見仕候、然は八幡通北上川筋好地村之内川除御普請見分之上仕様御人足積差上候様先日被 仰付候ニ付、見込積之儀伺上候処、御百姓共願之通承届ケ所行違無之様人足積ハ私共銘々仕様人足積印封ニて差上候様、尤已後ともニ右様相心得可申旨御沙汰之趣承知仕候、右貴報可申上如斯御座候、已上
六月廿五日 両人
御勘定所
一筆令啓達候、然は北上川筋之内二子通二子村尻引と申所、所々高木通嶋村道斉橋辺・立花村留ノ上下浅瀬相成為御登穀船通用差支候ニ付御普請被成下度旨御?奉行申出候間、御?奉行立合見分之上仕様積可被差出候、尤八通御代官へも申達候之間、例之趣ヲ以見分可被申候、右申入候、已上
六月廿四日 田鍍 市左衛門
杉村 甚左衛門
下斗米 勘 蔵
北 村 清 助
栗谷川伊右衛門
岡田 金左衛門
工藤 泰右衛門
両人殿
猶以絵図面委敷相認可被差越候、已上
一筆致啓上候、然は御勘定奉行中より御用状相達候間差越申候、
尤御報可然様御取計可被下候、則白印代差越申候、右可得御意如此御座候、已上
六月廿五日 猫 塚 彦四郎
竹村 圓右衛門 様
御用有之候間御詰可被成候、已上
六月廿五日 新田目 作 内○
松 田 伊之助
猫 塚 彦四郎 殿
右差紙ニ付罷出候処、此度悪銭二子万丁目通ニて三拾五貫七百四拾文差上候ニ付、右銭為打砕立合為御用御勘定方長沢和七・御徒目玉山勇助罷越候、然ル所下役久慈野助病気候間、右役相勤候様御村肝入老名御呼上幕打廻大石イ木割抔を以五人にして、一時半計ニ粉々ニ為打砕申候、右ヲ叺ニ入御代官両人・長沢和七・玉山勇助合封印ニて取仕廻
右悪銭ハ専ラ五戸・三戸・福岡通・奥通より何十万出候程難計候、然ル所五月八日ヨリ稠敷相成、右悪銭壱両ニ付拾五貫文・拾四貫文相場ニ御座候不通用ニ相成候手より仙台領・秋田領へ密ニ買人参相抜ケ候、盛岡ハ悪銭御城下中ヨリ七千貫文相出、馬町寄合会所ニて御砕キ被成候
前書留書落有之御代官より写取左之通
御支配処御給人格猫塚彦四郎御給人格御成御礼願之通、来ル廿七日被為請候旨被仰出候、依之上下着用鳥目持参寅ノ中刻御中丸御鑓懸之間へ各内壱人召連御詰可被成候、已上
五月廿五日 高 野 織 江○
松 田 伊之助 殿
新田目 作 内 殿
猶以御礼稽古前日被仰付候間、八ツ時召連御詰可被成候
御支配所御給人格猫塚彦四郎後御礼願之通来ル廿七日被為請候旨被仰出候、依之上下着用寅ノ中刻御中丸御鑓懸之間へ各内壱人召連御詰可被成候、以上
五月廿五日 高 野 織 江
松 田 伊之助 殿
新田目 作 内 殿
御?奉行願上候尻引・立花・道斉橋、御穀船通用船道御勘定処より御沙汰有之六月廿九日見分有之、然ル所竹村氏より右書状行違相達可申相出不申処、猶又此日未明見分相済候、右場所絵図面共書上申被遣別段仕様無之、尤堀方一応之事故見分立合致候様被成下度旨御?奉行并新田目作内殿へも御書状差遣申候
長内良右衛門ト申仁ハ若カリシヨリ重役勤メ 神鼎院様御直政之砌役下りニ相成、黒沢尻通御代官相蒙、右勤中夏油・岩崎野草飼論ニて黒沢尻通御百姓共銘々持馬数千疋牽連レ御城下相詰候節之勤番此長内也
然ル処其頃竹村圓右衛門詰居、右御用ニ付盛岡出立之砌勤番長内より御訴書下書共ニ不紛出立之竹村ニ書取れせ候事奇妙也、訳ハ其身書取候得ハ右趣意呑み込居、何時御尋候ても心得居候事なれハ御答ニ行当候事無之、御代官口上のみ承り罷越候ては一々は難相済候事故、如此申付と相見得候よし竹村咄合、夫故少も滞なく相済候と申事ニ御座候、是ハ大小不拘用事向ニヨリ可用器量成と思ひ是ニ留置
一筆啓上仕候、然は北上川筋之内二子通二子村尻引と申処、高
木通嶋村道斉橋立花村留上下浅瀬ニ相成御穀船通用差支候ニ付御普請被成下度旨願出候ニ付、見分之上仕様積書上可仕旨御沙汰ニ御座候之間、見分之上別帳仕様積并絵図面三枚差上申候、右可申上如斯御座候、已上
七月二日 猫 塚 彦四郎
御勘定所
袰綿瀬左衛門御徒頭相勤身帯弐百石宮古通知行有之候所、百姓共へ過役大増申付、右百姓欠落候ヲ八戸弥六郎様ニて取押地頭様□御金方被成御取上
一 千九百四拾六人三分五り
右は六月十六日より同廿二日迄、日数七日成田早房
演説
黒沢尻通御給人格竹村圓右衛門・二子通御給人格猫塚彦四郎、此度花巻二郡中御普請奉行被仰付候ニ付、諸御普請願各より被差出候ハヽ立合見分之儀御普請奉行へも御用状を以可申遣、尤各へも御勘定所ニて見分之儀可申候間、立合見分之上仕様積可被差出事
一 御普請奉行へ御普請被仰付、出来栄之節各へ見分之儀懸合有之候ハヽ其節立合見分可被成事、尤各へ御普請被仰付候節ハ御普請奉行へ各より御懸合得立合見分可被成事
一 御普請奉行へ被仰付候節御普請中御賄代・雑事代其上下ニて一日百文あて被下置候、尤右御賄代ハ御普請預方御代官所より御渡可被成事
六月
右之通御代官へ下斗米勘蔵達シ
一筆致啓上候、残暑之節弥御安全被成御座珍重御儀奉存候、此元拙者無事相務罷有候、御安意可被下候、扨花巻川原町槇木積場御普請後より差越候絵図面ニて差繕候、木品一圓相分不申候、勿論類寄も無之候、兼て御咄合も木品は別段無之候得共宜敷旨御咄合御座候、殊ニ寄右積へ被仰付候事も可有之儀ニ御座候間、右之趣御内々得御意置候、右之段可得御意如此御座候、已上
七月 奥 茂 市
栃 泰 助
圓右衛門 様
彦四郎 様
右之通七月四日相違忰圓右衛門迄御状遣候旨申来
一筆啓上候、然は八幡通北上川筋好地村之内川除御普請被成下度旨御百姓共願出候ニ付、石鳥谷町裏人馬通用差支、御代官立合見分之上仕様積銘々見込印封ニて、尤御百姓共願之趣得と承、ケ所行違無之様可仕旨御沙汰ニ御座候、二郡御代官立合見分之上、別紙絵図面并御人足仕様帳差上申候、右可申上如斯ニ御座候
七月十七日 猫 塚 彦四郎
御勘定所
一 四千九百 好地元
二子通太田村三ツ沢川御山へ草飼新道七ケ村より願上、七月十八日同廿四日迄日数七日、馬数千百十九疋、壱疋所持之者より壱人宛千百拾九人ニてボウツキ立ヨリフスノ沢迄千五百間人馬通用差支無之様、出来栄下役御山奉行兼久慈野助見分ニ来ル、
本十弐ケ村草飼寄合場所ナレ共三笹間・栃内村・横し田村ハ尻平川御山へ二ケ年新道打候ニ付、相保外七ケ村ハ太田村・同御新田・轟木村・飯豊村・湯口村・上根子村・北根子村ナリ、尤湯口村ハ里計・飯豊村ハ半分懸り刀者案内之者拾人計抱ひ石切弐人・鍛冶壱人・雑用賄免仕上、御用共ニ
五拾貫文 太田村肝入 源治
老名 惣右衛門
権三
市之丞
三郎左衛門
彦右衛門
轟木村肝入 藤之助
伊左衛門
惣右衛門
七郎兵衛
佐左衛門
太田新田肝入 左兵衛
飯豊村肝入 伊兵衛
北根子村肝入 長兵衛
ゆ口村肝入 平助
上根子村肝入 作兵衛
一筆令啓達候、然は高木通・東拾弐丁目村之内北上川筋外台東側川筋悪敷年々欠込候ニ付、御普請被成下度旨御百姓共願出御代官見分之上仕様積差出可申候、御代官へ懸合右場所見合仕様積可差出候、右之趣御代官へ申遣候間箇所行違無之様差積可申候、右申入候、已上
七月廿四日 田鍍 市左衛門
下斗米 勘 蔵□
北 村 清 助○
栗谷川伊右衛門○
岡田 金左衛門
両人殿付
右御用状廿六日相違候間、同役圓右衛門方へ御報之旨申越遣候
一筆令啓上候、然は昨日申達候大口堰普請人足積下役迄委細被申越、尚肝入共よりも申出候間千八百人申付候、随て明廿四日より取付申度旨申出候間申付候、依て明日より右場所へ罷越肝入共へ差図可被致候、尤下役儀ハ明日御用御座候て指越候様無之、是故ニ御自分御越前文之通御計可被成候、若盛岡表より御用有之候節ハ何れニも繰合下役指越可申候、右可申入如此御座候、已上
七月廿三日 新田目 作 内
松 田 伊之助
猫 塚 彦四郎 殿
猶々肝入共へも申付遣候間、御心得可被成候、已上
六月廿四日より取付水懸りハ
南万丁目村
花巻村
北万丁目村
圓万寺村
湯口村
此節上根子村八百五拾石之用水神山堰欠落村方預ニ付六月廿四
日より取付、是非ニ脇村より助合得不申八百五十石出来栄至申
度願ニて取付
上根子村肝入 作兵衛
老名 藤右衛門
同 清七
同 善右衛門
同 市助
同 彦右衛門
本八百五十人
七月廿九日出来栄、御代官新田目作内罷越見届候
一筆啓達候、然は花巻川原町槇木積場御普請御城代持之場所別帳仕様積之通被仰付候、則木品山入御切手仕様積帳共差越申候、右之趣は御城代へ申越御人足割付ハ八幡寺林通・万丁通・安俵高木通へ割付被仰付候、右申入候、已上
七月廿五日 中 里
田 鍍○
下斗米□
北 村
栗谷川
岡 田
両人殿付
覚
一 雑元木弐百拾八本 長弐丈弐尺より
元□五尺廻より八寸廻迄
右は花巻川原町裏町屋敷之内槇積場川除御普請入用之木品、高木通倉沢村小原御林・日向御林、赤府、二子通尻平川村尻平川御山ニて元剪被仰付候条御山元紛敷儀無之様為剪出可被申候、已上
文政五年七月 御勘定処
二子万丁目通 久慈 野助殿
安俵高木通 太田多見平殿
御山奉行 鈴木 木八殿
覚
一 弐千五百四拾四人 御村人足
内、一 五百三拾六人 八寺
一 六百五十六人 万丁目通
一 千三百五十四人 安高
右は花巻川原町町屋敷之内積場普請入用人足、右之通割付被仰付候、無滞出払候之様可被仰付候、已上
七月 御勘定処
右御代官中
御状拝見仕候、然は花巻川原町真木積場御普請御城代持之場所仕様積申上候通被仰付、木品山入御切手御人足御割付共ニ御渡被下、尤御城代へも被仰遣候旨御沙汰之趣承知候、随て来る三日より同十日迄、日数八日之割合御代官へ懸合取付申候間、此段御訴申上候、右貴報旁申上度如此御座候、已上
七月廿八日 両人
御勘定所
一筆啓上候、然は花巻川原町裏真木積場御普請先達て仕様被仰付申上候処、御城代持之場所之通被仰付候之旨御勘定処より御沙汰御座候、右ニ付御割付書差越申候、来る三日より同十日迄日数八日御割付御人足出払候様被仰付被下度候、右可得御意如此御座候、已上
七月廿八日 両人
米倉 五左衛門 様
新田目 作 内 様
神 匡 様
一筆令啓達候、然は花巻槇積場御普請積之通被仰付候ニ付、此間申入候、然ル処右積之外も可有之哉、町屋敷之内土手四五十間程欠込候ニ付、猶又御普請之儀川原丁之者共願出候旨御城代より申来候間、其筋懸合之上見分致仕様積絵図面共ニ委敷相認早々可差出候、尤此間被仰付候積之内ニて可成ニも結等出来候儀ニ御座候ハヽ右之趣其筋懸合別段御普請無之様御取計可被申候、右申入候、已上
七月廿七日 中 里 ○
田 鍍 ○
下斗米 □
北 村 ○
栗谷川
岡 田
両人殿付
御状拝見仕候、然は花巻槇積場御普請御積之通被仰付候ニ付、此間御沙汰承知仕候、然ル所去ル十七日洪水ニて町屋敷之内土手四五十間程欠込候ニ付、猶又御普請之儀川原丁之者共願出候旨御城代より被仰上候ニ付、其筋懸合之上見分仕様積絵図面共ニ委敷取調早々差上候様、尤此間被仰付候積之内ニて可成ニも結等出来候はゝ右之趣其筋懸合別段御普請無之様取計候様御沙汰之趣承知仕候、先頃申上候通格別大破ニ御座候得共最初積御人足を以可成ニも出来候様仕度右之段申上候、尤此度御城代より被仰上候儀ハ相心得不申罷在候、随て御町奉行へ得ト懸合別段御普請仕様積不申上相済候ハヽ其旨可申上候、来ル三日より取付候儀御代官へ懸合御人足割合も仕候間、木品剪賦等手合仕罷有候否猶可申上候、右貴報申上度如此御座候、已上
御状拝見仕候、然は高木通東十二丁目村之内北上川筋外台東側川筋悪敷年々欠込候ニ付、御普請被成下度旨御百姓共願出御代官見分之上仕様積差上申候ニ付御代官へ懸合右場所見分仕仕様積差上候様、尤御代官御沙汰被成候ニ付、ケ所行違無之候様差積可申旨被仰付承知仕候、右御報申上度如斯御座候、已上
七月廿七日 両人
御勘定所
御状致拝見候、然は御支配所東十弐丁目村北上川筋外台東側川筋御普請御百姓共願出候ニ付被仰上候処、御立合見分仕様積差出候様御勘定所より申来候付、来ル廿九日御立合申候様被仰遣致承知候、尤雨天ニ候ハヽ明日ニ罷越候様是又致承知候、右御報可得御意如此御座候、已上
七月廿六日 両人
神 匡 様
田 鍍 要之進 様
御状拝見仕候、然は花巻槇積場御普請積之通被仰付候ニ付、此間御沙汰之趣承知仕候、然ル処去ル十七日洪水ニて町屋敷之内土手四五十間程欠込候ニ付、猶又御普請之儀川原丁之者其願出候旨御城代より被仰遣候由、随て其筋懸合見分致仕様積絵図面共ニ委敷相認差上候様御沙汰之趣承知仕候、尤此間被仰付候積之内ニて可成ニも結等出来候儀ニ御座候ハヽ、右之趣其筋懸合別段御普請無之様取計可申旨御沙汰承知仕候、右欠込ハ最初積申上候は土手破損ニて結各七間申上候処、四十間余不残欠込、屋敷地へ欠込申候、乍然同処下モ之方川口相直り出シ、和工乱杭等申上候処、相除候ても宜相見得申候間旁右積申上候御人足を以是非出来栄ニ至候様仕度、右之段御町奉行小野寺又作へ懸合候所地主共迷惑ニ不相成様御普請ニ御座候ていつれにも承知之趣懸合ニ御座候間、右之通仕様相究木品物賦等手合仕置候、随て別段仕様積差上不申候、右貴答旁此段申上度如斯御座候、已上
八月二日 両人
御勘定所
猶以申上候、御普請出来栄之節立合見分之儀御町奉行立合ヲ得候様可仕哉、御代官立合ヲ得可申哉、此段奉伺候、御沙汰被成下度奉存候、川原丁槇積場御普請御用ニ付御勘定処へ御用状差上申候、御意被遣被下度候、已上
八月二日 両人 印
太 田 左 中 様
小野寺 又 作 様
一筆啓上仕候、然は先頃御沙汰御座候、高木通東拾弐丁目村之
内北上川筋川除御普請御代官立合見分之上、別紙仕様積帳并絵
図面共ニ差上申候、右可申上如此御座候、已上
八月七日 猫 塚 彦四郎
御勘定所
一 五百廿五人 綱取石組
一筆啓達候、然は花巻川原町槇積場御普請先頃被仰付候、仕様積を以此間積之分共御普請可仕旨委曲被申越令承知候、尤出来栄之節見分立合之儀御町奉行得立合候様可仕哉、委曲被申越候、右場処之儀は御城代持之儀ニ御座候間、御町奉行へ懸合得立合見分致候様可被取計候、右申入候、已上
八月四日 中 里
田 鍍
下斗米
北 村
栗谷川
岡 田
両人殿付
一筆令啓達候、然は八幡通御代官処田力村北上川筋下似内村瀬川筋当作川原ト申処、去月十七日洪水之節処々欠崩御田畑危相成候ニ付、御普請被成下度旨御百姓共願出御代官申越候、右場所御代官得立合御百姓共願之場処得と被相心得ケ所之儀は行違無之様仕様積相認申、印封ニて例之通見分之上可差出候、御普請仕様之儀は処々見込考も有之筈ニ御座候間、御百姓共迷惑相及不申様可被取計候、右申入候、已上
八月五日 中里 判左衛門○
田鍍 市左衛門○
下斗米 勘 蔵
北 村 清 助○
栗谷川伊右衛門
岡田 金左衛門
両人殿付
御状拝見仕候、然は八幡通御代官所田力村北上川筋下似内村瀬川筋当作川原ト申所、去月十七日洪水之節所々欠崩御田畑危相成候ニ付、御普請被成下度旨御百姓共願上御代官申上候ニ付、右場所御代官立合見分之上仕様相考行違無之様、御百姓共迷惑不仕様取計可申旨御沙汰之趣承知仕候、右貴答申上度如此御座候、已上
八月七日 両人
御勘定処
一筆啓上候、然は御支配所田力村北上川筋下似内村瀬川筋当作と申所、去月十七日洪水之節所々欠崩御田畑危相成御普請被成下度旨御百姓共願出被仰上候ニ付御立合見分之上仕様積申上候様御勘定処より御沙汰御座候、随て来ル十日迄之内御立合申度候間、貴御元御手合次第日限被仰遣候様致度候、右可得御意如此御座候、已上
八月七日 両人
米倉 五左衛門 様
三 上 権 作 様
一筆啓上候、然は花巻槇積場御普請出来栄候付、御町奉行小野寺又作立合見分相済申候、此段御訴申上候、已上
八月十 両人
御勘定所
一筆致啓上候、然は爰元川原丁槇積場御普請入用之木品御切手御勘定処御渡被成候間差越申候、明日より剪為出申候間御渡被成候様致度候、右可得御意如此御座候、已上
八月三日 両人
久 慈 野 助 様
太 田 多見平 様
別紙申上候木品、此元ニて手合相用候間、御渡被下候様ニ御取計被下候ハヽ右御内々申上候、以上
両人
野 助 様
多見平 様
一筆致啓上候、然は爰元川原町槇場御普請一昨十日迄御割付ニ御座候処、先頃雨天ニて相後今日出来栄ニ相成申候間御立合御見分被下候様致度候、右之段可得御意如此御座候、已上
八月十二日 両人
太 田 左 中 様
小野寺 又 作 様
弥御壮健被成御勤仕珍重御事奉存候、然は別紙を以申上候通今日出来栄御見分被下候様被成下度候、先頃御勘定処へ相伺候処、御城代持之御場所故御町奉行得立合候様ニと御沙汰ニ御座候、尤先頃之雨天ニて申上候よりハ両日相後申候間旁今日御見分相済候、明日御訴申上度奉存候間何分御上申入候、今日御見分被成下度候、右申上度如此御座候、已上
八月十二日 両人
又 作 様
八月廿二日八幡通田力村下似内村当作川原見分二子通御代官新田目作内下役小館幸之助安俵通下役太田多見平・猫塚彦四郎・竹村圓右衛門立合相済、晝宿は田力村肝入 六右衛門
一筆啓達候、然は和賀川筋夏油川筋川除御普請鬼柳通北鬼柳村安之助・上鬼柳村茂助先年請負い願上被仰付置候、然ル所去月十七日洪水ニて数ケ所大破ニ相成当年分遣残人足ニては御普請相及兼候之旨願出候、依て右場所御代官得立合ケ所行違無之様見分之上仕様積銘々印封ニて可被差出候、右申入候、已上
八月廿三日 中里 利左衛門印
田鍍 市左衛門
北 村 清 助
栗谷川伊右衛門
岡田 金左衛門
両人殿付
猶以絵図面共御認可被差出候、尤不少御普請ケ処之数ニ御座候間、可相成丈来春迄差延、此節難差延処計差積可被差出候、已上
御状拝見仕候、然は和賀川筋夏油川筋川除、御普請鬼柳通北鬼
柳村安之助・上鬼柳村茂助先年請負願上被仰付置候所、去月十
七日洪水ニて数ケ所大破ニ相成、当年分遣残御人足ニてハ御普
請相及兼候旨願上候ニ付、右場御代官得立合、ケ所行違無之様
見分之上仕様積銘々印封ニて差上候様御沙汰之趣承知仕候、右
貴報申上度如斯御座候
八月廿六日 両人○
□
御勘定所
尚以絵図面共ニ相認差上候之様、尤不少御普請ケ所之趣可相成丈は来春迄差延、此節難指延所計差積上候様御沙汰之趣承知仕候、已上
一筆令啓達候、然は鬼柳通和賀川筋夏油川筋御普請請負場所立
合分見分候様去ル廿三日付ニて御勘定奉行より同通連名ニて申
来候処、此節廻村ニ付右之趣申越候所、来ル晦日・朔日両日之
内罷越立合候様申来、尤御自分へも通達いたし同道罷越候様申
来候間朔日ニ罷越可申、右御心得を以御越可被成候、右可申入
如此御座候、已上
八月廿九日 新田目 作 内
松 田 伊之助
猫 塚 彦四郎 殿
尚以難差延ニ付晴雨ニ不拘両日之内罷越候様申来候、左様御心得可被成候、已上
御状致拝見候、弥御安全被成御勤珍重奉存候、然は八幡通好地
村北上川筋石鳥谷裏迄処々川除御普請貴様仕様積之通被仰付候
所、両人御場所へ相詰申度ニ付御勘定奉行へ申聞候様被仰越、
右之趣中里判右衛門殿へ申聞候処、此度ハ両人相詰可申旨拙者
共より申越候様達ニ御座候、右可得御意如此御座候、已上
八月廿五日 興 津 茂 市□
栃 内 泰 助□
竹村 圓右衛門 様
尚以御普請所詰合之儀ハ被仰越候、先達て伺被指出候之節御沙汰向は御場所ニ寄両人へ被仰付候事も可有之旨御沙汰御座候処、一躰御普請所詰合は両人相詰候御心得ニて候、最初御沙汰向ト相違致居候、何時も壱人ニて難相勤節ハ両人相詰申度旨其度毎伺出候得ハ宜敷御坐候、最初より両人宛詰合之儀は不被仰付候、已来御場所ニ寄伺出候之様可被成候、尤御同役へも右之趣御通達可被成候、已上
一筆啓上仕候、弥御安康被成御勤珍重奉存候、然は八幡通好地
村石鳥谷町裏迄所々川除御普請竹村圓右衛門仕様積之通被仰付
候所、両人御場所へ相詰申度旨同役より相伺之処、此度ハ両人
相詰候様中里判右衛門様へ被仰聞候趣、各様より被仰遣候ニ付
相続候様同役より通達ニ御座候、然ル所和賀川筋夏油川筋御普
請三通懸り御場所、此度立合見分之儀御沙汰ニ御座候間、右場
所見分相済候ハヽ直々好地村へ相詰申候、此段可然被仰上被下
度奉頼候、尤同役圓右衛門迄被仰遣候、拙者共心得之儀通達有
之承知仕候、右之段御頼申上候、可得貴意乍内状印形ヲ以如此
御坐候、已上
八月晦日 猫 塚 彦四郎
栃 内 奥 津 様
一筆令啓達候、然は高木通御代官所東拾弐丁目村北上川筋所々川除御普請御自分積之通被仰付候間則仕様積帳木品山入御切手共差越申候、尤人足割付之儀は八通御代官へ申達候、右申入候、已上
八月廿九日 中里 判左衛門
田鍍 市左衛門
北 村 清 助
栗谷川伊右衛門○
岡田 金右衛門□
猫 塚 彦四郎 殿
覚
一 四千八百八拾九人 御村人足
内、一 千六十三人 八幡寺林通
一 千六百四十八人 二子万丁目通
一 千百人 安俵高木通
一 千七十八人 鬼柳黒沢尻通
右は高木通東拾二丁目村北上川筋所々川除御普請御入用之人足
御状拝見仕候、然は高木通御代官所東拾弐丁目村北上川筋所々川除御普請私積之通被仰付候ニ付仕様積帳并木品山入御切手共ニ相達御沙汰之趣承知仕候、人足御割付八御代官へ被仰遣候旨是又承知仕候、右貴報申上度如此御座候、已上
九月二日 猫 塚 彦四郎
御勘定処
九月三日市里ニて指立候
覚
一 松元木 八百八拾九本 長四間より弐間迄、末口三尺廻より壱尺五寸廻迄
一 雑元木 千百三拾六本 長弐丈壱尺より壱丈四尺迄、末口三尺廻より壱尺五寸廻迄
右は高木通御代官所東拾弐丁目村北上川筋所々川除御普請入用
木品、同村押切林・天神宮御林・山神御林・虚空蔵御林・寺ケ
平御林・天神御林ニて元剪被仰付候条御山元紛敷儀無之様為剪
出可被申付候、已上
文政五年八月 御勘定所
安俵高木通御山奉行 太 田 多見平 殿
鈴 木 喜 八 殿
九月朔日・二日和賀川三通為見分罷越、尤二子通御代官新田目作内・下役小館幸之助、黒沢尻通御代官及川勇右衛門・下役磯地十蔵立合相済、横川目村高屋敷・下江釣子村朴木前・畑中前
一 九月三日八幡通石鳥谷裏へ相詰候
一筆致啓上候、然は此元好地村石鳥谷町裏川除御普請明六日出来栄ニ相成申候、随て明日御立合御見分被下度奉存候、右可得御意如此御座候、已上
九月五日 両人
四通付
一筆啓上仕候、然は此元八幡通好地村北上川筋石鳥谷町裏迄川除御普請□□□□□□□□□□八通御代官立合見分相済申候、此段御訴申上候、右申上度如此御座候、已上
九月七日 両人
御勘定処
一筆啓上仕候、然は先頃御沙汰御座候和賀川筋三通御普請処御代官立合之上難差延ケ所計仕様絵図面差上申候、尤来春迄差延候ても宜御場所は別帳ニて申上候、右申上度如此御座候、已上
九月七日 名印
御勘定所
一筆啓上仕候、然は先頃御沙汰御座候安俵通東拾弐丁目村川除御普請来ル七日より取付、同十二日迄日数十日御代官懸合取付申候間、此段御訴申上候、右申上度如此御座候、已上
九月四日 猫 塚 彦四郎
御勘定処
一筆啓上候、弥御安泰可被成御勤仕珍重奉存候、然は安俵通東拾弐丁目村御普請拙者仕様積之通被仰付候、随て竹村圓右衛門立合相勤申度候間、此段被仰上被下度奉頼上候、猶早々被仰下度奉頼上候、右可得御意如斯御座候、已上
九月四日 猫 塚 彦四郎○
栃 内 泰 助 様
興 津 茂 市 様
尚乍内状印形相用ひ得御意候
御状致拝見候、弥御安康被成御勤珍重奉存候、然は安俵通東拾弐丁目村北上川筋川除御普請先頃貴様積之通被仰付候所、右御普請中竹村圓右衛門立合之儀其筋へ被仰上被下度旨被仰遣致承知候、早速中里判右衛門殿へ申聞候所、圓右衛門手透き次第立合被仰付候旨御同人達御届候、右之趣圓右衛門懸合得立合候様可被成候、右御報可得御意如斯御座候、已上
九月六日 興 津 茂 市□
栃 内 泰 助□
猫 塚 彦四郎 様
安俵通東拾弐丁目村御普請九月七日取付、同十六日迄日数十日
世話役高木 喜兵衛
同 矢沢 多兵衛
一筆啓上仕候、然は先達て御沙汰御座候、八幡通田力村北上川筋下似内村瀬川筋当作と申所、去月十七日洪水ニて処々御田地欠崩候ニ付、川除御普請御代官立合見分之上仕様帳并絵図面差上申候、右可申上如此御座候、已上
九月十三日 猫 塚 彦四郎
御勘定所
一筆致啓上候、然は此元安俵通東拾弐丁目村川除御普請明十二日迄ニ出来栄ニ御座候、随て明後十七日出来栄御見分被下度奉存候、右得御意如此御座候、已上
九月十五日 猫 塚 彦四郎
竹村 圓右衛門
四通付
覚
一 銭弐百文 二子通成田村早房御普請四月廿六日見分
一 同壱貫四百文 同所御普請六月十六日より同廿二日迄日数七日
〆壱貫六百文
右之通御普請処見分并御普請詰合中上下分雑事銭受取申候、已上
文政五年九月 両人
米倉 五左衛門 殿
三 上 権 作 殿
松 田 伊之助 殿
新田目 作 内 殿
神 匡 殿
田 鍍 要之丞 殿
及川 勇右衛門 殿
長 嶺 泰 助 殿
覚
一 弐百文 万丁目通豊沢川筋槇場見分、六月九日
一 弐貫文 同所御普請中八月三日より同十二日迄、日数十日
〆弐貫弐百文
右之通御普請処見分并御普請詰合中上下分雑事銭受取申候、已上
文政五年九月 両人
米倉 五左衛門 殿
三 上 権 作 殿
松 田 伊之助 殿
新田目 作 内 殿
神 匡 殿
田 鍍 要之丞 殿
覚
一 弐百文 高木通東拾弐丁目村八月二日見分
一 弐貫弐百文 同所御普請九月七日より同十七日迄、日数十一日
〆
八通
五代官
一 弐百文 八幡通田力村下似内村見分
〆
八通持
一 弐百文 八幡通好地村七月九日見分
一 弐貫弐百文 八月廿七日より九月七日迄、日数十一日
〆
一筆啓上仕候、然は爰元高木通東拾弐丁目村北上川筋川除御普請出来栄候付八通御代官立合見分相済申候、此段御訴右申上度如此御座候、已上
九月十七日 両人
御勘定所
覚
近年大小之御家中寺社并組付之者迄勝手向及困窮御奉公不任心底程ニも至可申哉、御不案堵思召候、依之御救ニも被成遣度思召候得共累年莫大之御物入打続公義御拝借金并江戸・大坂御借財相嵩、此末御公私共御取続之御目当無之程之儀故、外御救之御手段も不被為御届却て御家中所持之内、御借上可被成程之御時節ニ候得共、御入部無間も右様之御沙汰被成候儀甚御気毒思召候、乍然御家中一統如何様ニも御救被成度思召候間、御万所是迄御貸付被指置候御金銭別紙之通被下置候、万所之儀も非常之御備ニも相成候御趣意之御金銭とは乍申、一統之指支難御捨置事故、右之通被及御沙汰候、尤御勝手向至て御難渋候得共可相成所務之内貸上不被成候様思召候得共御勝手向御取続ニ至兼候節は乍御不本意無御拠明年ニも御沙汰被成候儀ニも可有之候条向後別て勝手向取締相続仕御奉公無懈怠相勤候様心懸可申旨被仰出
覚
一 身帯並拝借二口有之内一口被下候儀ハ旧臘畳上拝借相成候口より重被下旧臘畳上口無之者は去巳年拝借本相成候口ヲ以被下、本候巳年ニも相成候、拝借無之者ハ辰年拝借本相成候口より被下、余は右ニ准候事
一 当正月より此方江戸并大阪詰外御用筋ニ付、新規拝借ニて一口有之分半金被下候間、当年より半金分之上納被仰付事
但、暮分御証文共ニ御買上相成上納相済候ハヽ右上納御戻不被成事
一 御切米御金方引宛ニて拝借有之御用筋ニ付、夏分御証文御買上
ニ相成候人数は被下候、一口之内ニても当夏分上納被仰付候事
一 御扶持方引当拝借有之人数は、被下候一口之内ニても夏分上納被仰付候事
一 登有之組方ハ登之節御定之通拝借被仰付、不時ニは拝借不被仰付候事
但、登ニも銘々拝借ニは不被仰付、一組登之節被仰付候事
一 登無之組方之者并諸小者等は万所御金銭御猶予有之節追々拝借可被仰付間、拝借ニは不相成事
一 登之外御用筋ニ付、別段拝借之分ハ上納被仰付事
但、無拝借之者は別段拝借ハ被下候間上納不及事
一 中使
右之者共ハ身帯並一口ト申ニ不拘拝借事之半分被下候事
九月
一筆令啓達候、然は黒沢尻通御代官所和賀川筋所々川除御普請御自分仕様積へ被仰付候間、仕様積帳并木品山入御切手相添差越差越申候、尤右御普請中鬼柳黒沢尻通・二子通、右御代官立合被仰付候、出人足之儀ハ花巻二郡中御割付被仰付候、右御心得可有候、右申入候、已上
九月廿二日 中里 判右衛門
田鍍 市左衛門
北 村 清 助
岡田 金左衛門
猫 塚 彦四郎 殿
御状拝見仕候、然は黒沢尻通所々川除御普請私積之通被仰付候ニ付、仕様積帳并木品山入御切手共ニ相達、尤右御普請中鬼柳黒沢尻通二子通右御代官立合被仰付候旨御沙汰之趣承知仕候、出入人足之儀は花巻二郡中御割付被仰付候旨是又承知仕候、右御報可申上如此御座候、已上
九月廿二日 猫 塚 彦四郎
御勘定所
一筆啓上候、弥御安泰可被成御座珍重奉存候、然は黒沢尻通御代官所和賀川筋所々川除御普請今度拙者積之通被仰付候、随て右数ケ所大湯ニ御座候間、竹村圓右衛門立合被仰付候様御伺被下度奉頼上候、否被仰遣被下度奉存候、右可得御意如此御座候、已上
九月廿六日 名印
栃 内 泰 助 様
興 津 茂 市 様
覚
一 松元木百壱本 長サ壱丈八尺より壱丈六尺廻末口弐尺廻より壱尺五寸廻迄
一 雑元木四千弐百四本 長サ壱丈六尺より九尺廻末口四尺五寸廻より六尺廻迄
一 杉三千三百四十本
右は黒沢尻通御代官所和賀川筋所々川除御普請入用之木品鬼柳
通下鬼柳村夏油御山岩崎村塩手野御林西分御林ニて元剪被仰付
候、已上
文政五年九月 御勘定所
鬼柳黒沢尻通御山奉行 高杉新左衛門殿
磯地 十蔵 殿
一筆啓上候、御支配所和賀川筋三通処々川除御普請被仰付候ニ付、右入用木品御山入御切手御勘定処より相達候間、差越申候、御達被成候様致度候、右可得御意如此御座候、已上
九月廿六日 名印
高杉 新左衛門 様
磯 地 十 蔵 様
覚
一 壱万千八百五拾五人 本
内、一 弐千五百七十五人 八寺
一 三千九百九十四人 二万
一 弐千六百六拾五人 安高
一 弐千六百廿壱人 鬼黒
右は黒沢尻通御代官所和賀川筋所々川除御普請入用之人足、右之通割付被仰付候条無滞出払候様可被仰付候、已上
九月 御勘定所□
右御代官所中
覚
一 日数九日 三千六百九拾九人八分 高屋敷
一 日数八日 弐千九百四拾三人弐分 朴前
一 日数八日 三千百八拾壱人四分 畑中前
一 日数四日 千三百五拾七人 六黒
一 日数三日 六百七十三人六分 野田前
〆 壱万千八百五十五人
一筆致啓上候、然は黒沢尻通御代官所和賀川筋横川目村之内高屋敷・下江釣子村之内畑中前・朴前・野田前・六黒ト申所、五ケ所川除御普請拙者仕様積之通被仰付候、随て来ル廿九日より十一月朔日迄日数三十二日右御場所へ御人足出払候様被仰付被下度奉存候、尤右御普請中鬼柳黒沢尻通二子通御代官立合被仰付候旨御勘定奉行より御沙汰ニ御座候間御立合被成候様致度候、右可得御意如此御座候、已上
九月廿六日 猫 塚 彦四郎
米倉 五左衛門 様
三 上 権 作 様
松 田 伊之助 様
新田目 作 内 様
田 鍍 要之丞 様
神 匡 様
及川 勇右衛門 様
長 嶺 官 助 様
御状致拝見候、弥御安康被成御勤珍重奉存候、然は黒沢尻通御代官所和賀川筋処々川除御普請貴様仕様積へ被仰付候処、立合之儀被仰越之間御勘定奉行へ申聞候所此度ハ被仰出候通被仰付候旨、田鍍市左衛門殿申達御座候、右可得御意如此御座候、已上
九月廿八日 興 津 茂 市□
栃 内 泰 助
猫 塚 彦四郎 様
昨廿六日付御状令拝見候、然は黒沢尻通御代官所和賀川筋横川目村之内高屋敷ト申処、下江釣子村之内畑中前・朴前・野田前・六黒合五ケ処川除御普請貴様仕様積之通被仰付候ニ付、来ル廿九日より十一月朔日迄日数三十二日右御場所へ御人足出払候様可被申付旨被仰越候、然ル所右御普請三通懸り之処、今度八通り懸り御普請ニ被仰付候旨御勘定奉行達之趣申来候得共拙者共難落着御次第有之候、依之其筋へ懸合早々申遣候様非番同役共へ申越候所丹今右返書相違不申候間、右之次第不相済内ハ御百姓共へ不申渡候、依て人足差出候様無之候、此段御承知可被成候、右御報如此御座候、已上
九月廿七日 神 匡○
新田目 作 内○
米倉 五左衛門○
猫 塚 彦四郎 様
一筆啓上候、弥御安康可被成御勤珍重奉存候、然は先頃被仰付候黒沢尻通御代官所和賀川筋川除御普請来ル廿九日取付申度旨四御代官所へ及懸合候所右御普請三通懸り之処、今度八通懸り御普請被仰付候ニ付難落付次第有之、其訳非番御代官へ懸合申遣候処、丹今返書無之御百姓共へ不申渡候ニ付人足差出候様無之趣申参候、右ニ付取付延引罷有候間、此段宜被仰上被下度奉頼上候、右可得御意如此御座候、已上
九月廿八日 名印
栃 内 泰 助 様
興 津 茂 市 様
三官所人足差出不申候ニ付取付延引之旨、黒沢尻通御代官及川勇右衛門相断返書来ル
一筆令啓達候、然は黒沢尻通御代官所和賀川筋御普請今月廿九日より取付申度旨四御代官被及懸合候処、落着不申儀有之、非番御代官へ申越候趣ニ付、出入人足差支候之旨右御代官申聞候ニ付、御普請取付延引可仕旨其筋迄被申越令承知候、尤彼是相後候内降懸ニも相成候間、出入人足之儀四御代官へ厳敷申達候間、右之趣御代官へ懸合早俄取御普請取付候様可被取計候、右申入候、已上
十月朔日 中里 判右衛門
田鍍 市左衛門○
北 村 清 助
岡田 金左衛門□
猫 塚 彦四郎 殿
去ル朔日付之御状拝見仕候、然は黒沢尻御代官所和賀川筋御普請去月廿九日より取付申度旨四御代官へ及懸合候処、落着不申儀有之非番御代官へ申越候趣ニ付出人足差支之旨右御代官申聞候ニ付御普請延引可仕旨御普請方迄申越候処、御承知被成候旨被仰下、尤彼是相後内降懸ニも相成候間、出人足之儀四御代官へ調御達被成候ニ付、右之趣御代官へ懸合早俄取御普請取付候様取計可申旨共ニ被仰下承知仕候、早速右之趣を以四御代官へ懸合申遣候、右御報可申上如此御座候、已上
十月三日 名印
御勘定所
一筆致啓上候、然は和賀川筋御普請去月廿九日より取付申度旨先日御懸合申候処、御落着難被成儀有之旨御挨拶御座候間、延引之訳右之段御勘定所へ申上候処、又各様へ御達被成候ニ付御懸合申候て早俄取御普請取付候様申参候、相後候ては弥増降懸ニも罷成候間、御聞達御座候ハヽ早々被仰遣被下度奉存候、丹今御落着無之御次第ニも御座候ハヽ御挨拶之趣尚又御勘定処へ不申上相済不申候ニ付、此段及御懸合申候、否早々御報被仰下度候、右可得御意如此御座候、已上
十月七日 名印
米倉 五左衛門 様
三 上 権 作 様
松 田 伊之助 様
新田目 作 内 様
神 匡 様
田 鍍 要之丞 様
及川 勇右衛門 様
長 嶺 官 助 様
猶々御順達被下度奉頼候、已上
去ル七日付御廻状致拝見候、然は和賀川筋御普請去月廿九日より御取付被成候旨御懸合御座候節難落着儀有之盛岡へ申遣候間、右之趣御挨拶申候得キ、然処右延引之訳御勘定所へ被仰上候処、猶又拙者共へ御達有之候付、早俄取御普請取付候様申参候由、被仰越候通右之趣其筋達有之趣委曲非番同役より申参候、依て御人足之儀御百姓共取扱居候得共丹今御請不申出候間、右之訳尚又非番同役より申遣候、御請相済候ハヽ盛岡へ申遣候上出人足可申付候間、左様御承知可被成候、右御報知如此御座候、已上
十月六日 田 鍍 要之丞
神 匡○
新田目 作 内○
松 田 伊之助
三 上 権 作
米倉 五左衛門○
猫 塚 彦四郎 殿
一筆啓上候、弥御安康可被成御勤珍重奉存候、然は兼て被仰付候和賀川筋御普請去月廿九日より取付申度旨四御官所へ及懸合候所、落着不申儀有之非番御代官へ申越候之様出人足差出候之旨右御代官申聞候ニ付、取付延引之旨其筋被仰上被下度旨先頃得御意候所、早速御勘定奉行へ被仰上被下候所彼是相後候内懸ニも相成候間、出人足之儀四御代官へ厳敷被仰達候ニ付、右之趣御代官へ懸合早俄取御普請取付候様於勘定奉行より御沙汰ニ付早速四御代官処へ取付之義及懸合候所、鬼柳黒沢尻通二子通ハ出人足差支無之旨外御官所出人足御百姓共取扱居候得共丹今御受不申出、右之訳合非番御代官へ申越候旨、尤御請相済候ハヽ其御元へ被申出候之上出人足可申付旨申出候、前文之通故延引罷有候間、宜被仰上被下度奉存候旨、尤彼是相後候内短日其上寒気相慕水源御普請早俄取出来栄之程無覚束奉存候、此段御含被仰上置被下度奉頼上候、右可得御意如斯御座候、以上
十月七日 名印
栃 内 泰 助 様
興 津 茂 市 様
尚々日追格別雪降積候ても御普請申間敷哉、此段も御含被下度御内々得御意候、以上
御状致拝見候、然は御支配所田力村北上川筋御普請出来栄之旨申出候ニ付、明十四御立合見分之儀被仰越致承知候、然ル処三ツ沢鉛山御用ニて罷越候間、今度被遣御役御預役中様江も何分宜被申下度奉頼上候、右貴報可得御意如斯御座候、已上
十月十三日 猫 塚 彦四郎
米倉 五左衛門 様
三 上 権 作 様
一筆啓上候、然は私共御普請所詰合中雑事銭当春奉伺候処、御附札を以御沙汰被成下、右心得ニて御代官へ懸合申候処、八通懸り五御代官処懸り御普請共ニ土地懸り御代官処より相渡候様之御沙汰向ニて、脇御代官所へ割合候様訳て御沙汰も無之ニ付、花巻槇場川原町御普請処ハ御城代持之場所故雑事銭相渡候様無之旨御代官懸合ニ御座候、前々より雑事銭割合は兼て申上候通御人足相出候御高一統へ割合ニて八地懸り御代官処より相渡申候、已前此元御普請奉行被仰付置候節之御振合、右之通ニ御座候間、今度も右様被仰付被下度奉存候、右之段御代官へ御沙汰被成下度奉存候、此段奉伺候、已上
十一月 両人
御勘定所
去ル廿四日付御状令披見候、然は花巻川原町槇積場御普請中御賄代并雑事代とも御渡方相成兼候趣御代官懸合ニ付被申越令承知候、右御場所之儀は御城代持之事ニ有之候間、御城代へ申出受取候様可被取計候、右申入候、已上
十一月廿六日 佐々木 多 助
中里 判左衛門
田鍍 市左衛門
北 村 清 助
岡田 金左衛門
両人殿付
一筆令啓達候、然は黒沢尻通御代官所和賀川筋川除御普請前々より三通懸り被仰付来候場所近年ニ無之大破ニ付、先達て彦四郎仕様積へ八通助合被仰付候処、出人足差支之旨右御代官申出候ニ付、御百姓共再応取扱候様於代官へ申達為取扱候内時節相後れ降懸ニも相成、雪中迚も御普請之儀相成兼候趣、先頃其筋迄被申越候間来春雪解取付之節八通助合之儀御代官へ申達為取扱之処、御百姓共仕様御請相済候段御代官申出候間、来春迄御普請御延被成候、雪解相成候ハヽ御普請取付之儀可被申越候、右申入候、已上
十一月廿八日 佐々木 多 助○
中里 判左衛門
田鍍 市左衛門○
北 村 清 助○ 岡田 金左衛門□
両人殿付
右返書印紙遣竹村氏へ遣
一筆致啓上候、然は御支配所川原町真木場御普請中雑事代万丁目通御代官より受取可申処、御代官持場所無之ニ付相渡候様無御座候旨申来候ニ付御勘定処へ相伺候処、御城代持御場所故御城代申出受取候様取計可申旨御沙汰ニ御座候、随て別紙受取始末差上申候間御渡被遣被下度候、右可得御意如斯御座候、已上
十二月八日 猫 塚 彦四郎
竹村 圓右衛門
太 田 左 中 様
小野寺 又 作 様
覚
一 銭弐百文 川原町真木場御普請見分節雑事銭
一 同弐貫文 同所御普請八月三日より同十二日迄日数十日右同断
〆
右之通御普請所見分并御普請詰合中上下分雑事銭受取申候、已上
文政五年十二月 両人
前両殿付
右両人より返書銭添来ル
御状致拝見候、然は支配所川原丁真木場御普請中雑事代万丁目通御代官より御受取可被成旨御懸合被成候処、右御官所持場所ニ無之相渡候様無之候旨申来候ニ付御勘定処へ御伺被成候処、御城代持之事故御城代へ被仰出受取被成候様御沙汰御座候ニ付、別紙御受取被成相達申候、則弐貫弐百文受取状共ニ為持差越申候、御受取可被成候、右御報可得御意如斯御座候、已上
十二月八日 小野寺 又 作
太 田 左 中
両人様
先御入部黒沢尻通御代官大川勘兵衛、二子通松原津右衛門非番之節御目付四戸久左衛門、御徒目付坂牛源之丞其節前々共ニ鳥目上来候
諸御用日記(四)
御代官 小枝指清右衛門
久慈 弥六
下役 熊原 角蔵
工藤孝之助
一 筆啓達候、然ハ黒沢尻通里分村川岸前長手和工、破損之趣相聞得候之間、四御代官並御?奉行へも申越候、申合各立合見分、仕様人足積銘々印封ニて可被差出候、尤黒沢尻通御代官へも仕様人足之儀被仰遣候ニ付、仕様之義はヶ処行違無之様申合差積可申候、右申入候、已上
二月 佐々木多助
中里判左衛門
北村清助
栃内瀬蔵
岡田金左衛門
太田甚内
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
御状拝見仕候、然は黒沢尻通里分村川岸前長手和工破損ニ付四
御代官並御?奉行へも被仰遣候、随て申合私共立合見分、仕様人足積、銘々印封二て可差上旨、尤黒沢尻通御代官へも仕様任足積之儀被仰遣候二付仕様之儀はヶ所行違無之様申合差積候様御沙汰之趣承知仕候、右貴報可申上如此御座候、已上
二月十二日 両人
御勘定所
二月十四日川岸見分、黒沢尻御代官、長嶺官助、下役太田多見平、安俵通下役鈴木勝弥、二子通熊原角蔵、御?奉行中野孫左衛門、竹村立合
一 筆啓上仕候、然は先頃御沙汰御座候黒沢尻通里分村之内北上川筋川岸前長手和工破損ニ付四御代官、御?奉行立合見分之上仕様御人足積、絵図面差上申候、右可申上如此御座候、已上
二月十七日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 弐千弐百十九人弐分、惣本
貫木八十五本出申上候
二月廿四日 雨 在宿
観光院様兼て御病気被成御座候処、御養生不被為叶、去ル十六
日御卒去被成候二付、普請ハ今日より七日、鳴物は来月十五
迄御停止被仰出候間此旨可被得其意候、已上
二月廿二日 久慈弥六 ○
小枝指清右衛門
猫塚孝四郎殿
一 筆令啓達候、然は黒沢尻通里分村川岸前長手和工御普請園右衛門仕様積へ被仰付候所格別之御場所二も御座候故、立合之儀申出候付御普請中彦四郎立合被仰付候、右申入候、已上
三月五日 佐々木文助
中里利左衛門○
北村清助
栃内瀬蔵
岡田金右衛門
太田甚内
両人殿付
猶以御山入御切手ハ先頃御山奉行へ相渡申候、已上
御状拝見仕候、然は黒沢尻通里分村川岸前長手和工御普請園右衛門仕様積へ被仰付候所格別之御場所二も御座候故、立合之儀申出候ニ付右御普請中彦四郎立合被仰付候旨承知仕候右御報可
上如此御座候、已上
三月七日 両人
御勘定所
尚以御山入御切手先頃御山奉行へ御渡之趣是又承知仕候、已上
一 川岸前三月七日より取付十三日迄日数七日
一 筆啓上仕候、然は黒沢尻通里分村川岸前長手和工御繕御普請、
先日御訴申上候通去ル七日より取付、木品手合罷有候處、打続雨二て出水之上雪代出水之上、場所働方、石賦船通用難相成丹今場所取付及兼罷有候、尤日和続候ても雪代水最中二相成候得ハ、近日取付可申様無之候、随て水引落次第早速取付申度奉存候、間御代官へも懸合之上、一先引取申候、猶取付之節御訴可申上候、此段申上度如此御座候、已上
三月十一日 両人
御勘定所
一 筆致啓上候、然は爰元黒沢尻通川岸前長手和工御普請去ル七日
より取付罷有候處打続雨天、且雪代出水二て近日場所取付相成兼候二付水落次第取付申度、尤右之段御勘定処へ申上引取申候、追て取付候節日限可申上候間、一先御村出人足相控候様被仰付被下度右可得御意如此御座候、已上
三月十一日 両人
四御代官所様付
一 筆令啓達候、御自分儀御用有之候間此状参着次第出府可有候、右申入候、已上
六月廿三日 中里利左衛門
下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門
太田甚内
猫塚彦四郎殿
一 弐千四百五十人五分 花巻村川端坊後川原、沼田下瀬川共に
六月一日、同六日迄割合、宿花巻村、小久保丁橋より北西二軒目
飛札致拝見候、然は先頃委曲得御意候、なまこ和工取払分付各
様限被仰上候様御懸合相及候處、猶又委曲被仰越致承知候、いつれ右之儀は先頃彦四郎殿御出府之節、跡二て見分之上御代官 園右衛門殿より絵図面伺共に被差出候二付右絵図面へ附札を以御沙汰有之候間、嘸右之趣御代官より御掛合も可有之候、いつれ右二向仕様等御差積被成候之様奉存候、委曲御用状を以可被仰越候得共右御報は追て御沙汰も可有之候、今日金右衛門殿御城番二て御中丸への出勤二御座候間、御下城之上猶御沙汰可有之候、一先御報迄如斯二御座候、已上
七月一日 舟越清兵衛 ?
興津茂市 ○
両人様付
一 致筆啓上候、然は御支配所御境北上川筋和賀川落合御普請所二 付御境役申立 此間之筋及懸合候所先頃御出合有之御承知之通右場所御見分之 御 役中並同役竹村園右衛門御詮議之上絵図面、伺い書被差出候二付、右絵図面へ御附札を以今度御沙汰被成候二付、右二向仕様積差出候様囗囗より御囗合可有哉番奥津茂市、舟越清兵衛より申来候間委曲被仰遣被下候様奉存候、委細園右衛門可申上候得共此段可得御意如此御座候、已上
七月一日 猫塚彦四郎
長嶺官助様
一 竹村園右衛門八幡通瀬川御普請被仰付相詰候
一 筆致啓上候、然は先達て御沙汰御座候高木通更木村之内北上川筋御穀船通用差支候二付四御代官並御?奉行立合見分仕様積絵図面差上候、右可申上如此御座候、已上
七月五日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 筆致啓上候、然は先達て御沙汰御座候黒沢尻通里分村之内北上川筋御穀船通用差支候二付四御代官、御?奉行立合見分之上仕様積、絵図面共に差上申候、右可申上如此御座候、已上
七月五日 猫塚彦四郎
御勘定所
御境筋落付候御沙汰向長嶺官助懸合
去ル二日付廻状を以被仰越候二付、右之趣を以岡田金右衛門申向、絵図面、口上書共に被遣候分今日差出候処、同人申聞候ハ御境役より附札を以差支之儀申出候、御城代へ申出候二ハ絶て差支無之旨申出候由、申来候趣金右衛門申事二御座候、依て此度附札二て船頭より申出之通西川口底乱杭二て蛇籠二て包候様此度附札之通被仰付旨前同人達二御座候
一 なまこ和工弐拾間取払候儀御?奉行二て差支之趣御?奉行より 致沙汰可申候間取払候仕様積差出可申旨、尤難石二相障候ハハ乱杭二ても打置可申旨是又達御座候
一 高鳥羽川原拾五間之御附札二て参候間右弐拾間二被仰付候、尤堀上二砂利西川辺へ捨候様御附札二御座候処、西川へ大石之分
取賦候ては格別之御人足高二相成可申候間御請負被仰付候節之通取捨可申旨達御座候、
右之通御普請奉行御互より懸合候て仕様積早々差出候様前同人達御座候、何分早俄取仕様積差出不申候ては御差支之儀有之趣是又達二御座候、尤此度差出候絵図面御下ヶ被下度旨相伺候処、右絵図面御序伺等有之候間相下候様無之旨金右衛門申聞候、依て尚金右衛門へ申向候は、右絵図面附札二向仕様積等取調候儀二御座候間、御下ヶ不被下候ては積方差支之筋可有之ト懸合
候所控も可有之候間絵図面前文之通 留置候旨申聞候、然し絵図面無之候て差支候と、別段之絵図面相渡可申旨二て相渡候得共最早之伺書故布て差残候ては迷(惑脱カ)相成可申候間相返申候、依て此度被指越候絵図面無之候ては積方相出不申候ては早々被仰越候様致度候、右御報旁可得御意、已上
七月五日 女鹿善治
久慈 弥六
宮手仁左衛門
新田目佐市
小林喜右衛門 殿
小枝指清右衛門 殿
米内勝左衛門 殿
長嶺官助 殿
八戸上総方此度加判御役被仰付、座列之儀ハ宮内上座被仰出候旨申来候条此旨可被得其意候、已上
七月六日 御代官 両人
猫塚彦四郎殿
一 筆致啓上候、然は万丁目通花巻村御普請昨六日迄出来栄二御座候処今日黒沢尻通御普請処見分為立合罷越候間明八日
四ツ時御立合御見合被下候様致度候、右可得御意如此御座候、已上
七月七日 猫塚彦四郎
小林喜右衛門 様
小枝指清右衛門 様
米内勝左衛門 様
去ル四日付御状令披見候、然は鬼柳通北上川和賀川落合、仙 台御境御普請仕様之儀先頃申越候処、猶又委曲致申越令承知候、昨日御代官へは此元二て委細申達候、間御代官へ懸合二および候上積帳絵図面共認早々可被差出候、先頃も申越候通御境筋御大切之事二候間行違無之様可被取計候、右申入候、已上
七月六日 中里利左衛門
下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門
太田甚内
猫塚彦四郎殿
乍恐御答奉申上事
北上川筋和賀川落合西川口之中程二て帰帆御?通候程御除外 御留切御普請被成下、高鳥羽川原之内東ノ方幅拾五間二長弐百間程御堀立、松ヶ瀬和工先弐拾間御取毀被成下候ては通船差支二は無御座哉ト御尋御座候、左二奉申上候
一 西川口東西より御留切中程御明御普請被成下候儀奉畏候、杭高御座候ては万一乗懸候節、御船痛二相成候も難計奉存候間左様無之様御普請被成下置度奉願上候
一 高鳥羽川原長弐百間幅拾五間堀被下候儀ハ、東ノ方難石数多有之、破船も度々仕場所二御座候間弐拾間幅二御堀立被成下置度奉願上候
一 松ヶ瀬なまこ和工先は大石有之、破船間々御座候て奉願上、新規四拾五本御取出し難石御包置被下候御場所二御座候間御取毀被成下候ては乗下畏御座候、是迄之通二て被差置被下度奉願上候
一 高鳥羽川原堀立私共請負被仰付候内は、仙台領東向岸欠崩候場
所へ堀立候内大石之分ハ根〆同様二同所へ賦置申候、
右之通御尋二付乍恐御答奉申上候間宜被仰上被下度奉願候、
已上
文政七年七月 御?船頭五拾五人
老名 久六
〃 良助
〃 安之丞
〃 多兵衛
〃 七左衛門
御?肝入 村田仁兵衛殿
一 筆致啓上候、然は万丁目通花巻村之内後川原沼田除堰並川端坊御普請処、今日出来栄二付五御代官立合出来栄見分相済申候、此段御訴申上候、右可申上如此御座候、已上
七月八日 名印
御勘定所
七月八日後川原出来栄為見分八幡通御代官小林喜右衛門、安俵通御代官米内勝左衛門、万丁目通下役熊原角蔵立合見分相済
一 筆致啓上候、然は此間追々御沙汰御座候鬼柳通御境北上川筋和賀川落合御普請仕様之儀同通長嶺官助より御沙汰之趣委細懸合御座候間御附札之通仕様御人足積並絵図面差上申候、右可申上
如此御座候、已上
七月九日 名印
御勘定所
一 筆令啓上候、然は黒沢尻通北上川筋和賀川落合仙台御境御普請処先頃絵図面へ附札を以御達申候処、仕様積之内行違之儀有之、此度仕様向伺済之上御場所見分為御用御雇御勘定方興津茂市、明十九日立被遣候、御立合見分可被成候、御用筋之儀は委細同人へ申含遣候、御相談御取計可被成候、右可申入如此御座候、已上
七月十八日 中里利左衛門
下斗米勘蔵 印
栃内瀬蔵 印
岡田金左衛門 印
太田甚内
小林喜右衛門殿、新田日佐市殿
小枝指清右衛門殿、久慈弥六殿
米内勝左衛門殿、宮手仁左衛門殿
長嶺官助殿、女鹿善治殿
中野孫左衛門殿、大村源五郎殿
米内孫四郎殿、竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
去ル十八日付御状致拝見候、然は黒沢尻通北上川筋和賀川落合御境御普請処先頃絵図面へ附札を以御達御座候仕様積之内行違之儀有之、此度仕様向御伺済之上御場処見分為御用御雇御勘定方興津茂市立被遣候、昨十九日黒沢尻通へ着致、御用筋之儀ハ委曲同人懸合二も御座候間今日立合御場所見分相済申候、尤右御普請仕様向積之儀ハ御沙汰之通書上可申候、右報旁右可得御意如此御座候、以上
七月廿一日 御普請奉行弐人
御?奉行 三人
御代官 八人
右何レも連印
御勘定奉行連名殿付
一 筆啓上仕候、然は鬼柳通北上川筋和賀川落合御境御普請処、先達て仕様積絵図面差上申候処、仕様積之行違之儀有之、先頃右場所見分為御用興津茂市立被遣四御代官、御?奉行立合見分之上仕様御人足積並絵図面差上申候、右可申上如此御座候、以上
七月廿四日 猫塚彦四郎
御勘定所
口上之覚
鬼柳通北上川筋和賀川落合御境御普請処仕様向夫々立合見分之上評儀(議カ)申上候様御沙汰御座候二付私共評儀之上仕様積差上候処御沙汰之趣とハ仕様行違候儀有之二付此度御雇御勘定方興津茂市立被遣御達向委細懸合も有之、右御場所去ル廿日立合見分仕候、然ル處なまこ和工先弐拾間御取払、右跡へ目印二大乱杭為御打被成候、御場処は一躰深代且地場見切無御座和工下タ難石等有処も御定無之処より先頃御代官より申上候通書上不申候得共、今度茂市懸合之通大図見込を以御人足積書上申候、乍去乱杭二ては目印二相成候程高く打置候様無御座、御?舟頭共相尋候処是迄之和工之高サ二目印御立被下度旨申出候間長サ壱丈三尺位之丸太打込不申候得ハ相成
不申候、随て乱杭之積共違、御人足格別相増申候、なまこ和工取払若、相替候義も御座候ハハ其節可申上候、間猶仕様積被仰付被下度奉存候、差懸り申上候ては如何敷奉存候間此段御聞届被下度奉存候、已上
七月 猫塚彦四郎
竹村園右衛門
女鹿善治
長嶺官助
宮手仁左衛門
米内勝左衛門
久慈 弥六
小枝指清右衛門新田日佐市
小林喜右衛門
御勘定所
一 筆啓上仕候、然は先達て御沙汰御座候黒沢尻通里分村之内黒沢川筋御普請処三通八通御場所懸り御代官立合見分之上仕様積二通並絵図面壱枚二仕、差上申候、右可申上如此御座候、以上
七月廿六日 猫塚彦四郎
御勘定處
一 筆啓上仕候、然は横川目村四戸久左衛門知行所之内久保屋敷ト申処此節御普請も無之二付川除御普請被成下度旨同人知行所より願出候間御見分被成候上御普請へ御取付被成候様致度候、右可申得御意如此御座候、以上
八月六日 女鹿善治 印
長嶺官助
猫塚彦四郎殿
一 筆令啓達候、然は黒沢尻通御?処前川岸長手和工御普請右衛
仕様積へ被仰付候処、格別之御場所二も御座候故立合之儀申
出候二付右御普請中彦四郎立合被仰付候右申入候、以上
八月四日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門
太田甚内
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
御状拝見仕候、然は黒沢尻通御?處前川岸長手和工、御普請 右衛門仕様積へ被仰付候処、格別之御場処二御座候故立合之儀申出候二付右御普請中彦四郎立合被仰付御沙汰之趣承知仕候、
右御答申上度如此御座候、以上
八月七日 猫塚彦四郎
竹村園右衛門
御勘定所
一 八月五日より取付同十三日迄日数九日、然ル出後十五日出来栄申上候
一 筆致啓上候、然は黒沢尻通里分村御?處前川岸長手和工御普請明十四日出来栄申候間明後十五日御立合見分被下度候、尤御差急御普請二て早俄取出来栄候様御沙汰御座候故早速御訴申上度候間少々雨天二ても御立合被下候様致度候、右可得御意如此御座候、已上
八月十三日 両人
八通様付
一 筆令啓達候、然は黒沢尻通北上川筋和賀川落合仙台御境通、処々御普請今度竹村園右衛門仕様積へ御普請御普請被仰付候、右二付猫塚彦四郎儀は御普請中立合被仰付、御?奉行御境役ハ見廻方被仰付候、右申入候、已上
八月十一日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵 ?
岡田金左衛門? 太田甚内 ?
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
猶以御普請取付之義ハ前広申出候上御取付可有候、御?奉行
御境役へは取付日限各より懸合候様可被取計候、尤右御普請二 付なまこ和工取払致候義委曲先頃口上書を以被申出候趣承届候間、其節二向可被申出候、出人足是之儀は花巻二郡中御割付被仰付、右御代官へ申達候、木品山入御切手並仕様積共即差越申候、已上
覚
一 松元木、百五拾壱本
長サ壱丈六尺より壱丈弐尺迄、末口弐尺廻より壱 尺弐寸廻迄
右は黒沢尻通北上川筋和賀川落合仙台御境通所々普請入用木
品、鬼柳通岩崎村市ノ沢御林、小岩御林二て元剪被仰付候御山元紛敷義無之様為剪出可被申候、已上
文政七年八月 御勘定処?
鬼柳黒沢尻通 狐崎清治殿
御山奉行 太田多見平殿
御状拝見仕候、然は黒沢尻通北上川筋和賀川落合仙台御境通、所々御普請竹村園右衛門仕様積へ被仰付候二付猫塚彦四郎義儀ハ御普請中之立合被仰付、御?奉行御境役ハ見廻方被仰付候旨御沙汰之趣承知仕候、随て来ル十九日より取付申度奉存候間例之通御代官へ懸合之上右日限差支無御座候ハハ取付申度奉存候、猶日限御訴可申上候得共此段申上候、右貴報旁申上度如此御座候、已上
八月十四日 両人
御勘定処
猶以御普請取付之義ハ前広申上候上取付候様御沙汰之趣承知仕候、本文申上候通来ル十九日より取付申度奉存候、尤御?奉行御境役へハ取付日限私共より懸合候趣、尤右御普請二付なまこ和工取払後之義委曲先頃口上書を以申上候趣御聞届被成下候二付其筋へ向申上候様、出人足之義ハ花巻二郡中御割付被仰付、右御代官へ御沙汰被成候よし、木品、山入御切手並仕様積帳御渡成下相達申候、以上
一 筆令啓達候、然は花巻両御蔵より為御登穀川岸出道処〃御普請被成下度旨御船肝入松本惣十郎願出候付御代官申出候、依右御代官へは仕様積差出候様申達候、尤各へも為見合仕様積被仰付候間別紙ヶ処書上二向見立之上仕様積可被差出候、右申入候、已上
八月十二日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵 ?
岡田金左衛門? 太田甚内
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
御状拝見仕候、然は花巻両御蔵より為御登穀川岸出し道処〃御普請被成下度旨御船肝入松本惣十郎願出候付御代官へ仕様積被仰付候由、右二付為御見合私共へ仕様積被仰付候旨御沙汰之趣承知仕候、随て別紙書上二向見合仕様積差上候様、是又御沙汰之趣承知仕候、右貴報申上度、如此御座候、已上
八月十四日 両人
御勘定処
本新両御蔵より為御登穀川岸出道
所々御普請ヶ所書上覚
一 本御蔵より川岸出通用道瀬川船橋懸場処、両向共二和工御繕
一 同所五間はね出し
一 同所下モ水先突懸り道へ欠込二相成候間弐拾六間新規片和工御普請被成下度
一 新御蔵より川岸出通用船橋懸場所南向和工柵立新規
一 本新両御蔵御用北上川筋川岸前米おろし場長サ拾三間、横五間小石置上ヶ
一 同所御米船へ積入口かいの口長サ五間両側二ヶ所御手入
一 同処御米留乱杭新規
一 同所船着場長さ拾五間片和工新規
一 本御蔵より通用古川小橋両向水場二相成御繕御手入
右之通御手入御場所書上仕候、御見分之上、御普請被成下度乍恐奉願上候、已上
申八月 御船肝入 松本惣十郎
八通御代官様付
一 筆致啓上候、然は黒沢尻通北上川筋和賀川落合御境通、所々御普請被仰付候二付早々取付候様、尤出人足之儀は例之通二郡中御割付被仰付候二付各様へ御懸合取付日限申上候様御沙汰二御座候間来ル十九日より来月朔日迄日数十三日取付申候、右日限出人足出払候様其筋被仰付被下候様致度候、尤今度は前広日限申上候様申来候間、若御差支之義も御座候はは明十六日迄二被仰下度候、御報次第御勘定所へ御訴申上候間早俄取否被仰下度候、右可得御意、如此御座候、已上
八月十五日 両人
八人様付
尚〃早俄取御順達、明日中御報被仰下度候、已上
一 筆致啓上候、然は花巻本新両御蔵川岸出し通用道瀬川筋船橋懸場所両向並北上川筋川岸前御普請御船肝入松本惣十郎願出、各様被仰上候付、右御場所仕様御人足積為御見合拙者共見分之上申上候様御沙汰二御座候、明十六日罷越見分いたし候間此段御承知被下度候、為御心得右可得御意如此御座候、已上
八月十五日 両人
八通連名様付
一 花巻本新両御蔵川岸出場御普請兼て御自分被願い出候二付見分被仰付候間明十六日未明罷越候、右場所被相詰可申候、已上
八月十五日 両人
松本惣十郎殿
一 筆啓上仕候、然は一昨日御沙汰御座候北上川筋和賀川落合御境通御普請出人足御代官へ懸合来ル十九日より取付申候、此段御訴申上候、右二付高鳥羽浅瀬堀は御境へ差懸り候御場所故御他領役方へ相断候義二も可有御座哉ト奉存候、右様之儀ハ御境役へ御沙汰被成置被下度奉存候、右御報旁申上度如此御座候、
已上
八月十五日 両人
御勘定処
一 筆啓上仕候、弥各様御安康被成御勤珍重奉存候、然は此間被仰付候、北上川筋和賀川落合御境通御普請来ル十九日より取付申候間、右之段御訴申上候、然ル所高鳥浅瀬堀方男山下タ御境へ差懸リ小船並数十人人足共罷越為堀候事故御他領役方へ内々相断置候事二可有之と奉存候、且是迄船頭共御受負被仰付年々堀候節は御他領川前御番処並門岡村肝入へ船頭共限内々申聞候由相聞得申候、右之通御座候得ハ勿論今度相断候儀二も可有御座哉ト奉存候、随て右様之義御境役二も取計来候間右之段御沙汰被成下候様被仰上被取計被下度奉頼候、右御内々可得御意乍内状印形相用如此御座候、已上
八月十五日 両人
興津茂市様
船越清兵衛様
一 和賀川筋洪水ニ付十八日十九日夏油川上平袋迄見分、黒沢尻通御代官女鹿善治殿へ懸合左之通御用状差出ス
一筆啓上仕候、然は鬼柳黒沢尻通和賀川筋夏油川筋三通懸リ御普請処、去ル十四日十五日洪水ニて別紙ヶ所付之通大小破御座候ニ付見分候処、不少損シ二御座候得共今タ見切無之、落水二相成候ハハ懸リ御代官得立合見分之上書上申度奉存候、数ヶ処之内格別之大破も御座候得ハ御据御人足二て丈夫之御普請出来栄之程も無覚束奉存候得共可相成は御割増御人足等不申様懸リ御代官立合評義(議カ)仕度奉存候、乍去前書申上候通之事故相届不申時は評義之上仕様可申上候、一先此段御訴旁申上度
如此御座候、以上
八月十九日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 筆致啓上候、然は和賀川筋夏油川筋三通懸リ御普請処、去ル十四日十五日洪水二て別紙ヶ所付之通大小破御座候内
下江釣子村朴前と申所用水通用道並民家数軒へ水向キ相成難差延御場所御座候、尤数ヶ所之事故御据御人足二て出来栄程無覚束奉存候得共、可相成丈ハ御割増御人足等不申上候様御立合御見分之上評儀仕度奉存候、乍去相届不申時ハ是又評義
之上仕様申上度奉存候間明後廿二日御立合御見分被下度奉存
候、右可得御意如此御座候、已上
八月廿日 猫塚彦四郎
小枝指清右衛門様
久慈 弥六様
長嶺官助様
女鹿善治様
猶々明後廿二日雨天二御座候ハハ翌廿三日御見分被下度奉存候、尤江釣子村二て御待合申上候、已上
覚
一 横川目村高屋敷前
一 下江釣子村之内畑中前、砂田前、小森前、朴前、川田前、野田前、六里
一 山口村、白石、田中瀬岡土手
一 煤孫村新山
一 岩崎村上中嶋
夏油川筋岩崎村之内
一 平袋 一 上夏油 一 吉岡 一 瀧沢 一 内野
一 鱒沢 一 花曽根 一 南舘 一 宿御番処前
〆
右之通今度洪水二て破損処書上仕候、已上
八月十九日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 八月廿日晴 御境御普請宿、下鬼柳村荒屋敷與兵衛、御普請肝入下江釣子宿善蔵、二子通太田村三太郎、尤取付は八月十九日
閏八月一日迄日数十三日、為見廻御?奉行米内孫四郎
御境役高屋豊左衛門折居恵喜人相詰ル
一 八月廿弐日和賀川三通懸リ御普請処為見分二子通御代官久慈 弥六、鬼柳通女鹿善治、下役狐崎清治立合、野田前段々見初、夫より千苅田源十郎処ニて晝、夫より岩崎村肝入吉之丞処とまり、翌廿三日夏油川見分引取
一 筆啓上仕候、然は先達て御沙汰御座候花巻両御蔵より為御登穀川岸出道処御普請処御見合仕様積被仰付候付御船肝入松本惣十郎より御普請ヶ所書上向見分之上仕様積並絵図面差上申候、右可申上如此御座候、已上
八月廿八日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 千三拾四人、花巻両御蔵御人足積
一 筆啓上仕候、然は爰元黒御沢尻通北上川筋和賀川落合御境御普請先日御訴申上通、去月十九日より取付罷有候、然ル處先達て申上置候なまこ和工廿間取払跡へ乱杭打込候義今日迄取払候処水底八尺余有之、且和工立場処前後共二一躰盤(磐カ)二て如何様二も杭打込候様無御座候、目印之為二立置候二ハ三木倉様之もの二ても拵、夫へ立置候より外無之、左候得はなまこ有之候も同様ニて御取払之御趣意二応不申候、随て北上川東 はふへ見印杭大限り壱本相立根三本倉ニて包置候様二も仕度奉存候、前書申上候通なまこ和工取払跡へ打込候義ハ迚も相な兼申候、尤右入用御人足積上候分相残申候間、御村方へ御割戻可被仰付哉御沙汰被成下度奉存、三本倉二て根包杭立置候ても少シ之出水二ても保兼可申奉存候、随て可相成ハ東土手へ目印大乱杭ニても壱本打置候様仕度奉存候、此段奉伺候、来ル朔日迄二は外御場処は出来栄二相成申度間、否御沙汰被成下度奉存候、右伺上候通被仰付候ハハ御代官、御?奉行へ御沙汰被成下度奉存候、右申上度如此御座候、已上
八月廿八日 猫塚彦四郎
御勘定処
一 八月廿六日折居恵喜人御普請処為見廻来ル
一 筆啓上仕候、然は去月十四日十五日洪水ニて和賀川夏油川筋御
普請処数ヶ処大破、御田畑へも相障且民家へ水先相成危く候御場処も御座候、随て御据御人足当春より所々手入仕候残御人足二ては数ヶ処之事故御普請相届兼可申候、乍去当年ハ三通御役高当御人足御割付脇方へも不少被仰付候、猶又御割増申上候ては一統迷惑可仕、可相成は差懸り至て危キ御場処計有御人足二て相届候程之普請二仕、外ハ明年へ相延候様仕度、懸り御代官
得立合見分評諚之上別紙ヶ処付を以明年迄相延候分ハ朱印二仕申上候、御聞届被成下度奉存候、併地主共二より押て願上候二も御座候時ハ場所二向増御人足被仰付不被下候得ハ御普請可仕様無御座候、前書申上候通数ケ処之事二御座候得ハいか様中考仕候ても相届不申候、尤此節ハ難差延用水並御年貢海道欠廃、民家へ水先キ二相成候御場処ハ先頃より取付罷有候、委細之義ハ御代官よりも可申上候、右御訴可申上如斯御座候、已上
閏八月二日 猫塚彦四郎
御勘定処
一 筆令啓達候、然は鬼柳通岩崎御新田夏油川筋用水揚口長手、去 ル十四日十五日洪水二て押切並土手弐ヶ処欠落候間御普請被成下度旨願い出候、右場見分之上仕様積銘々より印封二〆例之趣を以可被差出候、右申入候、已上
八月廿一日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門 太田甚内
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
一 筆致啓上候、然は和賀川落合御境通御普請被仰付候、来ル十九日より取付来月朔日迄日数十三日二申上候、右御普請中各様御見廻方被仰付候二付取付日限拙者共より及御懸合候様御勘定奉行中より申来候間右之段得御意候、左様御承知被下候様致度候、右可得御意如斯御座候、已上
八月十七日 猫塚
竹村
高屋豊左衛門様
折居兵左衛門様
此節兵左衛門病気、同番恵喜人被仰付相詰ル
右之通御?奉行へも申達ス
閏八月朔日 晴
一 筆致啓上候、然は此元御境筋御普請今日迄御日割二御座候処出来栄申候間明後三日御立合御見分被下候様致度候、尤雨天二も御座候ハハ四日二御立合被下度候、右可得御意如斯御座候、已上
閏八月朔日 猫塚
竹村
八通御代官八人様付
尚〃早々御順達被下度 可被仰上候
一 筆致啓上候、然は此元御境筋御普請明二日出来栄申候間明後三日御立合御見分被成候様いたし度候、尤雨天二御座候ハハ四日二御立合被成度候様いたし度候、右可得御意如斯御座候、已上
閏八月朔日 両人
高屋豊左衛門様
折居兵左衛門様
折居恵喜人様
御?奉行へ右之通相認遣ス
中野孫左衛門 大村源五郎 米内孫四郎右三人連名
去ル廿八日付御状令披見候、然は黒沢尻通北上川筋和賀川落合御境通御普請去ル十九日より取付候處なまこ和工廿間取払候跡へ目印乱杭打込候義水底八尺余も有之、且和工立場
所前後は一躰盤(磐カ)二て如何様二も杭打込候様無之付委 曲被申越令承知候、東土手へ目印大乱杭ニて壱本打置候様被仰付候、右東土手へ目印乱杭打候処猶絵図面積書共可被差出候、尤なまこ和工廿間取払候跡へ乱杭打候右入用出人足残候分割戻之義被申越候、随て右残出人足之分書取を以可被差出候、右申入候、已上
八月晦日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵○
岡田金左衛門○ 太田甚内
両人殿付
一 閏八月三日、晴、御境通出来栄見分として八幡通御代官新田見
佐市、安俵通当作毛御用ニて頼合、二子通久慈 弥六、下役
熊原角蔵鬼柳通女鹿善治、下役狐崎清治、御?奉行米内孫四郎、
御船肝入村田仁兵衛、御境役高屋豊左衛門折居恵喜人、立合
見分相済
一 筆啓上仕候、然は鬼柳通北上川筋和賀川落合御境通御普請処昨
二日 出来栄二付、今日八幡通御代官並御?奉行、御境役立合見分相済申候、此段御訴申上候
一 先頃相伺候なまこ和工取払跡へ目印乱杭打込候様無之付東土手 へ大乱杭壱本打込候義、伺之通御沙汰二御座候間右遣払残御人足書上帳並絵図面相添差上申上候、右申上度如斯御座候、已上
閏八月三日 両人
御勘定処
覚
一 四百四十弐人 なまこ和工取払跡へ目印杭四十壱本、
入用御人足先達指上候本
内、一壱人 大乱杭壱本
〃、一拾人 長サ八尺、末口壱尺弐寸廻
打方並杭根通石組立
〆
残、四百三十壱人
右の通遣払残御人足書上仕候、已上
閏八月 両人
御勘定処
右之通帳面御わたし絵図面相添差遣ス
一 惣元壱万千
一 閏八月六日、晴、上堰網取大破ニ付為見分二子通御代官久慈弥六鬼柳通女鹿善治、我等等両人古人村崎野村久兵衛藤沢村喜四郎翌七日夏油穴堰見合、右同断、相詰ル
一 朴前六黒取付罷有候
一 同八日、晴
一 筆令啓達候、然は黒沢尻通里分村之内黒沢川筋処〃欠込候処計、板橋下タ南北両向欠込之処、御自分仕様積へ被仰付候間積帳並木品山入御切手共差越申候、尤出人足之義は黒沢川筋所〃欠込之処は二子通鬼柳黒沢尻通へ御割付被仰付候並黒沢川板橋下タ南北両向欠込之処は花巻二郡中へ御割付被仰付候間、例之趣を以右御代官へ懸合候様可被取計候、右申入候、已上
閏八月五日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門
太田甚内
猫塚彦四郎殿
覚
一 松元木、千百八拾五本 長壱丈八尺より弐間迄
末口弐尺廻より壱尺五寸廻迄
右は黒沢尻通御代官所里分村黒沢川筋処〃御普請入用之木私 品、鬼柳通岩崎村和田ノ上御林、和田野内野上御林、夏油川南向羽場上御林、岩崎御新田村塩手野御林、西分御林二て元剪被仰付候条、御山元紛敷儀無之様為剪出可被申候、已上
文政七年閏八月 御勘定所?
鬼柳黒沢尻通御山奉行 狐崎清治殿
太田多見平殿
覚
一 松元木 百八十八本 長壱丈六尺より弐間迄
末口弐尺廻より壱尺弐寸廻迄
右は黒沢尻通御代官処里分村黒沢川板橋下タ南北両向欠込之 処御普請入用木品鬼柳通岩崎村下梅ノ木御林、市ノ沢御林
上梅ノ木御林二て元剪被仰付候条、御山元紛敷儀無之様為剪出可被申候、以上
文政七年閏八月 御勘定処?
鬼柳黒沢尻通御山奉行 狐崎清治殿
太田多見平殿
一 九千九拾五人 五分 三通懸り
一 千七百七拾九人 五分 八通懸り
一 筆致啓上候、然は御支配所里分村黒沢川筋欠処三通懸り、八
通懸り御普請入用木品御山入御切手弐枚御勘定処より相達申
候間則差越申候、御囗囗可被成候
一 御勘定処へ之一通差越候之間例之通御立合被下度候
一 和賀川筋横川目村高屋敷前用水道代欠落並下江釣子村畑中前、砂田前、夏油川筋南舘ト申処、御年貢海道出来栄二申候間御届申候、被仰上度被下度奉頼候
一 三通懸り御人足賃銭百三拾貫文御渡被下度奉存候、囗て受取通へ官囗いたし差越申候間御渡被下度候、右可得御意如斯御座候、已上
閏(八カ)月九日 猫塚彦四郎
狐崎清治様
御状拝見仕候、然は黒沢尻通里分村之内黒沢川筋処〃欠込之処
並板橋下タ南北両向欠込之処私仕様積へ被仰付御沙汰之趣承知仕
候、尤仕様積み木品山入御切手相達申候、尤出人足之儀は黒沢川
筋所々欠込之処は二子通鬼柳黒沢尻通へ御割付被仰付候、黒沢川
板橋下タ南北両向欠込之処は花巻二郡中へ御割付被仰付候二付、
御代官へ懸合取計候様是又承知仕候、今度は大場二も御座候間竹村園右衛門立合被仰付被下度奉存候、此段御伺申上候、尤来ル十
二日より取付申候間、此段御訴申上候、右貴答旁御伺申上度如斯御座候、已上
閏八月九日 猫塚彦四郎
御勘定処
一 筆致啓上候、然は黒沢尻通里分村之内黒沢川筋処〃欠込御普請処、出人足二子通、鬼柳黒沢尻通御割付被仰付候御場所は来ル十二日より同廿二日迄日数十一日出払候様其筋被仰付被下度奉存候、尤黒沢川板橋下タ両向欠込御普請処ハ花巻二郡中御割付被仰付候、御場所は来ル十九日同廿二日迄日数四日二御割合出払候様是又其筋被仰付被下度奉存候、右御割付之義ハ御勘定処より各様へ御達候旨御沙汰御座候、右可得御意如斯御座候、已上
閏八月九日 猫塚彦四郎
二郡中御代官様付
覚
一 御人足 三百五拾人
右は鬼柳通北上川筋和賀川落合御境通御普請御人足遣払残右之通御座候間差上候、已上
閏八月 両人
御勘定処
一 筆啓上仕候、然は鬼柳通北上川筋和賀川落合御境通御普請出来栄二付、先頃御訴申上候通御代官、御?奉行、御境役立合見分
相済申候、然ル処御人足遣払残御座候間差上申度別紙を以書上仕候、随て御村方へ御割戻可被仰付哉、脇御普請御割付候節右分御差引御割付可被仰付哉、御沙汰被成下度奉存候、右申上度如斯御座候、已上
閏月 両人
御勘定処
御状令披見候、然は和賀川筋八通懸、三通懸御普請処之内今度洪水二て流失二付委曲被申越令承知候、然ル処今度之義は、不少流失之趣御座候得は、迚も御据人足二て不残御普請相成兼候付委細御心付別段積共相添被差越候、右仕様積二ても一通之御普請向二も可有之候、左候ては来春雪代出水等外非常之出水二て自然之義二ても有之候ては布て御百姓共迷惑可致候間今度之義は猶見分之上御普請所一躰見込仕様積可被差越候、今日当毛御用ニ付非番御代官出立罷越候間此元二て委曲申達候、委細御代官へ懸合之上可被取計候、以上
閏八月九日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門○
太田甚内○
両人殿付
為貴報御状拝見仕候、然は和賀川筋八通懸三通懸御普請処之 内今度洪水二て流失二付、御代官立合之上仕様差積申上候、然ル処今度之義ハ不少流失二御座候得ハ迚も御据人足二て不残御普請相成兼候二付心付委細申上候処、右仕様積二ては来春雪代出水外非常之出水有之候ては布て御百姓共迷惑可仕今度之義ハ猶見分上一躰見込仕様積差上候様御沙汰之趣承知仕候、当毛御用二付非番御代官被相越委曲懸合も御座候間猶見分之上御沙汰之通仕様積差上可申候、右貴報可申上如此御座候、已上
閏八月十二日 両人
御勘定処
一 筆啓上仕候、然は先達て御沙汰御座候鬼柳通岩崎御新田、夏油川筋用水揚口長手処〃御普請御代官立合見分之上仕様積並絵図面差上申候、右可申上如此御座候
閏八月十三日 猫塚彦四郎
御勘定処
一 筆令啓上候、然は支配所八幡通八幡村葛丸川筋松ノ木川原、嶋川原、同通田力村北上川筋御普請処所々破損候付御普請願出候、依て各様御立合御見分之上仕様人足積差出候様御勘定処より申来候間来ル十六日御立合御見分可被申候、右可得御意如此御座候 已上
閏八月十三日 新田目左市
両人殿付
尚以雨天二御座候ハハ十七日二致度、左様御承知可被申候
御状致披見候、御支配所八幡通八幡村葛丸川筋松ノ木川原、嶋川原、同通田力村北上川筋御普請処処々破損二付御普請願出候二依て拙者共御立合見分之上仕様御人足積差出候様御勘定処より御達有之二付来ル十六日御立合候様被仰遣致承知候、然ル処拙者共へ今二御勘定処より御沙汰無之候間御沙汰次第猶是より御問合可得御意候、尤彦四郎義此節豊沢川筋御普請最中故罷越候様無之候間左様御承知可被下候、右御報可得御意如是御座候、已上
閏月十四日 両人
御沙汰有之二付新田目左市殿へ御返書指越不申候
御状拝見仕候、然は八幡通八幡村北上川筋葛丸川、田力村北上川筋所々損候ニ付御普請被成下候旨御百姓共願出候付テ御田地二拘無據願上候下儀二は可有御座候得共是迄処〃御普請在之、二郡中御割付不少候之間、来春迄御延被成置可然場所は御代官へ懸合ヶ処数二無之様取計可申願出候程之者共他懸二も可有之故御普請向丈夫二可願出候得共人足高二ては外〃御百姓共迷惑可仕、右之趣熟ト相心得見分之上例之通銘々印封二〆差上可申、御延之差置候ても可然場所ハ積帳附札仕差上候様、御代官立合之儀は其御元二て御達被成候旨、委曲御沙汰之趣承知仕候、右貴答申上度如此御座候、
以上
閏八月十四日 猫塚彦四郎
竹村園右衛門
御勘定所
御状拝見仕候、然は黒沢尻通里分村黒沢川筋御普請猫塚彦四郎仕様積へ被仰付候処、大場二付立合之儀申上候処、右御普請中竹村園右衛門立合被仰付候旨御沙汰之趣承知仕候、右貴報申上度
如此御座候 已上
閏八月十四日 両人
御勘定所
御状致拝見候、然は御支配処葛丸川筋並北上川筋松木川原、嶋川原、田力村処〃御普請御百姓共願出候節被仰上候処、拙者立合見分之上仕様御人足積差出候様御勘定処より御達御座候二付、来ル十六日御立合申候、被仰遣致承知候、然ル処拙者共へも昨日御沙汰御座候得とも、此節黒沢尻通黒沢川筋御普請被仰付相詰罷在、昨今最中取付罷有候付、十六日御立合申兼候間御猶予被下候様致度候、猶日限是より前広可得御意候、右可得御意如斯御座候、以上
閏八月十五日 両人
新田目佐市様
一 筆令啓達候、然は万丁目通豊沢川筋大橋上下両側当春より追々出水二て不少欠込候之間御普請被成下度旨願出候間右場所見分之上例之趣を以銘々より仕様積印封二〆可被差出候、御代官へは此元二て立合見分之儀申達候、以上
閏八月十七日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵 印
岡田金左衛門
太田甚内 印
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
御勘定処より御用状相達候間披見之上差越申候、御達可被成候、尤印紙壱枚差越候間返書御認御出し被下度候、其御元二て直々御見分之儀懸合も候ハハ拙者儀御救被下度奉頼候、右可得御意如此御座候、以上
閏月十九日 猫塚印
竹村様
一 筆致啓上候、然は爰元黒沢尻通里分村黒沢川筋三通懸り御普請、同処下モ橋下タ両向八通懸り御普請明日出来栄二御座候間明後廿三日御立合御見分被下度奉存候、右可得御意如此御座候、以上
閏八月廿一日 猫塚彦四郎
竹村園右衛門
八通御代官様付
一 筆令啓達候、然は鬼柳通北上川筋和賀川落合松ヶ瀬和工、高鳥 羽浅瀬御普請壱ヶ年弐千五百人つつ之人足高二て先達て船頭共受負之儀願上願之通被仰付置候処去年迄年数相済候付前書人足高より三百人相減弐千弐百人宛之出、猶又酉年より丑ノ年迄五ヶ年継願之儀申出候、右場所当年不少御普請も有之事故、前書弐千弐百人程之人足高二無之候ても可然事二も被考候、八通御代官へハ此元二て委曲申達候間御代官へ懸合右場立合見分之上心付評議可被申越候、右申入候、已上
閏八月十八日 下斗米勘蔵○
栃内瀬蔵
岡田金左衛門? 太田甚内?
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
右返書は白印紙ニて竹村へ遣申候
御状拝見仕候、然は鬼柳通鬼柳通北上川筋和賀川落合松ヶ瀬和工並高鳥羽浅瀬御普請壱ヶ年弐千五百文宛之人足高二て先達て船頭共請負之儀願上、願之通被仰付置候処、去年迄年数相済前書御人足高より三百人相減弐千弐百人宛之出人足高二て猶又来酉年より丑年迄五ヶ年継願之儀申上候処、右御場所当年不少御普請も在之候故前書御人足高二無之候ても可然事二も可有御座哉二付八通御代官立合見分心付評議之上申上候様御沙汰之趣承知仕候、右貴報可申上如此御座候、已上
閏八月廿一日 両人
御勘定処
一 筆啓上仕候、然は高木通北上川筋更木村船引道御普請出来栄
二付立合見分之義御代官より懸合御座候二付、昨廿日立合見分相済申候、此段御訴申上候、右申上度如此御座候、已上
閏八月廿一日 両人
御勘定処
一 筆啓上仕候、然は黒沢尻通里分村黒沢川筋欠込八通、三通御普請 共二出来栄二付今日御代官立合見分相済申候、此段御訴申上候、右可申上如此御座候、已上
閏月廿三日 猫塚彦四郎
竹村園右衛門
御勘定処
一 筆令啓達候、然は鬼柳黒沢尻通和賀川筋八通三通懸御普請場所 御百姓共依願御請負被仰付置候処御免被成、右御請負仕来之人足高を以各へ御任被成至御普請惣出来栄之上、右御代官立合見分相済、遣払人足高委細書取被差出候、然ル処已来は御普請向多少不拘其時之手寄御代官立合見分評議御普請致候様被取計、仕様並御据人足遣払之義は一ヶ月限取調月〃可被差出候、右申入候、已上
閏八月廿四日 下斗米勘蔵?
栃内瀬蔵?
岡田金左衛門?
太田甚内?
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
廿七日竹村より右御用状相達候、然ル処同人より返書相認
遣書候二付印紙遣候様申来、右御用状印紙共に差遣申候、已上
一 筆令啓達候、然は黒沢尻通里分村之内川岸板橋当六月洪水二
て押流候二付新規懸替被成下度旨願出候処、為見合各へも仕様積被仰付候間見分之上銘々より仕様差積例之趣を以印封二〆可被差出候、右之趣ハ二子通、黒沢尻鬼柳通御代官へも申越候間見分之上囗懸合之上仕様行違無之様可被取計候、右申入候、已上
閏八月廿九日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門
太田甚内
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
右返書ハ同役竹村より差出候趣二て印形御用状共二指越
申候
一 筆令啓達候、然は花巻両御蔵より為御登穀通道並瀬川筋船橋懸方両向和工御繕御普請鬼柳通岩崎御新田夏油穴堰洪水二て破損之御場処御普請御自分仕様積へ被仰付候間則積帳木品山入御切手共二差越申候、尤時節柄相後レ候ては御年貢米上納方差支二相成御百姓共迷惑可致候間手合次第早俄取御普請取付候様可被取計候、右申入候、以上
九月四日 下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門
太田甚内
猫塚彦四郎殿
猶以御人足割付御代官へ申達候間右御代官へ御懸合可有候
以上
覚
一 雑元木百弐拾九本 長三間より壱丈弐尺迄、末口弐尺より 壱尺弐寸廻迄
右は花巻両御蔵より為御登穀通用道、北上川筋川岸前並瀬川
筋船橋懸方両向和工御繕御普請入用木品、万丁目通湯口村青山御山二て元剪被仰付候条御山元紛敷儀無之様為剪出可被申候
以上
文政七年九月 御勘定所
二子万丁目通御山奉行 熊原角蔵殿
工藤孝之助殿
一 筆啓上仕候、然は先頃御沙汰御座候鬼柳通北上川筋和賀川落合
松ヶ瀬和工並高鳥羽浅瀬御普請一ヶ年弐千五百人宛之御人足高二て船頭共御請負願上願之通去年迄被仰付置候処前書御人足高より三百人相減候て千弐百人宛之出人足高ニて猶又来酉年より丑年迄五ヶ年継願申上候処右場処当年不少御普請も在之事故、弐千弐百人程之人足高二無之候ても可然哉、八通御代官立合見分心付評議申上候様御沙汰御座候間去月八通御代官立合見分仕候、然ル処、当年御普請は松ヶ瀬和工先弐拾間取払東口浅瀬堀込、西口中留切被仰付候故当時水通弥宜相見得申候、明年雪代出水相済候処二ては来年迄之通浅瀬並砂り相溜リ可申哉、当年御普請仕様ハ専ラ東口へ水相廻候様之御普請向二御座候間当時之川筋二御座候得は此度願上候御人足高よりは猶相減願上候ても可然哉奉存候、御代官評議仕、此段申上候、右申上度如此御座候、已上
九月 猫塚彦四郎
竹村園右衛門
御勘定所
一 筆致啓上候、然は花巻両御蔵より為御登穀通用道並瀬川筋船橋
懸方両向和工御普請拙者仕様積へ被仰付候、尤御年貢上納方二も相成候間早俄取御普請出来栄候様御勘定奉行より御沙汰御座候間明七日より同十日迄日数四日二御人足出払候様其筋被仰付被下度奉存候、右可得御意如斯御座候、已上
九月 猫塚彦四郎
竹村園右衛門
御勘定所
一 筆致啓上候、然は花巻両御蔵より為御登穀通用道並瀬川筋船橋懸方両向和工御普請拙者仕様積へ被仰付候、尤御年貢上納方二も相成候間早俄取御普請出来栄候様御勘定奉行より御沙汰御座候間明七日より同十日迄日数四日二御人足出払候様其筋被仰付被下度奉存候、右可得御意如斯御座候、已上
九月六日 猫塚彦四郎
小林喜右衛門様
新田目佐市様
小枝指清右衛門様
久慈 弥六様
米内勝左衛門様
宮手仁左衛門様
長嶺官助様
女鹿善治様
猶以早々御順達被下度奉願候、已上
一 筆致啓上候、然は花巻本新両御蔵為御登穀通用道北上川筋川岸
前並瀬川筋船橋懸方両向和工繕御普請入用之木品御山御切手御勘定所より相達候間則差越申候、御達可被成候、右可得御意如斯御座候、已上
九月七日 猫塚印
熊原角蔵様
釼峯
日光山御制札写
来酉年
日光山御社参被遊二
付住居候天狗降魔
神其御山より可退也
文政七年七月
水野出羽守印
天狗並
降魔神
一 筆啓上仕候、然は先頃御沙汰二御座候和賀川筋夏油川筋三通懸御普請処先達て之洪水二て数ヶ処大破二付迚も当年中御据御人足高二て当年相及兼候二付先頃別段積帳差上候処、右仕様ニては一通之御普請向二て、来春雪代出水等外非常之出水二て自然ト之儀二ても有之候ては布て御百姓共迷惑も可致候間今度之儀は猶懸御代官立合見分評議之上御普請一躰見込仕様積二差上旨御沙汰二付再応懸御代官見分之上御据御人足遣払並今度増御人足仕様積帳、絵図面差上申候
一 先頃御沙汰御座候黒沢尻通里分村之内黒沢川板橋懸替仕様積帳へ絵図面並万丁目通豊沢川大橋上ミ両側御普請仕様積帳絵図面共二指上申候、右可申上如此御座候、已上
九月八日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 筆啓上仕候、然は先頃御沙汰ニ御座候八幡通八幡村北上川筋松木川原、嶋川原、葛丸川、田力村北上川筋処〃破損御普請処、御代官立合見分之上仕様積差上候様、尤当年ハ数ヶ処御普請二て二郡中御百姓共一統迷惑可致候二付来春迄御延被成置可然御場所ハ御沙汰之趣を以御代官へ懸合立合見分評議之上寛(緩カ)急印仕、仕様御人足積帳へ絵図面四枚差上申候、右可申上如此御座候、已上
九月十日 猫塚印
御勘定所
一 筆致啓上候、然は花巻両御蔵より為御登穀通用道並川岸出シ和工、瀬川筋和工繕御普請今日出来栄二御座候間明日御立合御見分被下度奉存候、右可得御意如此御座候、已上
九月十日 猫塚彦四郎
小林喜右衛門様
新田目佐市様
小枝指清右衛門様
久慈 弥六様
米内勝左衛門様
宮手仁左衛門様
長嶺官助様
女鹿善治様
猶以御順達被下度奉頼上候、已上
一 筆致啓上候、然は黒沢尻通夏油穴堰用水揚場処〃御普請拙者仕様へ被仰付候間明十二日より同十五日迄日数四日二割合其筋被仰付下度奉存候、右可得御意如此御座候、已上
九月十日 猫塚彦四郎
小枝指清右衛門様
久慈 弥六様
長嶺官助様
女鹿善治様
尚〃右御人足御割付御勘定処より御達之趣二ハ御座候得共免申候て十六人二御座候
一 筆啓上仕候、然は花巻本新両御蔵より為御登穀通用道処〃御
普請今日出来栄候ニ付八通御代官立合見分相済申候、此段御訴申上候、右可申上如此御座候、已上
九月十一日 猫塚彦四郎
御勘定処
一 筆啓上仕候、然は鬼柳通岩崎御新田夏油穴堰用水揚場並処〃御
普請出来栄ニ付今日三通御代官立合見分相済申候間此段御訴申上候、右可申上如此御座候、已上
九月十五日 猫塚彦四郎
御勘定処
一 筆啓上仕候、秋冷御座候得共弥御勇健可被成御勤仕珍重義奉存候、然は爰元夏油穴セキ用水揚場処〃御普請今日出来栄二御座候、付てハ先頃御約談仕候通私より御勘定処へ之出来栄届状差出申候間右御心得ニて御代官中様へ被仰遣囗囗囗囗囗囗囗囗被下候様奉存候、右可得貴意如此御座候、已上
九月十五日 猫塚彦四郎
久慈弥六様
女鹿善治様
尚〃御勘定処へ之御用状一通差上申候間例之通、御立合被下度奉頼上候
一 九月十一日花巻川岸前出来栄相済、翌十二日夏油穴堰へ相
詰、宿日影万之助ト申者、御普請善蔵、めし炊源之助
一 筆令啓達候、然は鬼柳黒沢尻通、八通掛、三通掛和賀川筋、夏油川筋、当八月洪水ニて大破之処、御据人足遣残を以御普請不相成旨、乍然其侭被差置候ては弥増大破二罷成不容易御普請二も至可申、依て右遣残を以何れ二も繕御普請致置候旨先頃被申出候、併共左候ては一通之御普請向二も有之、来春二相成人足高之御普請二相至候ては却て御百姓共迷惑相及可申候之間大破之見込次第差積可被差出旨先頃申入候処、此度右積書被差出候、然処夫々御吟味方等間取も有之、然(仕カ)懸り之御普請弥増相後れ可申候間此度被差出候積書之通被仰付候心得二て御据人足遣残を以御普請取付居候様可被取計候、割増人足之儀は否追て可申入候、右申入候、已上
九月十五日 栃内瀬蔵
太田甚内
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
御状拝見仕候、然は鬼柳黒沢尻通、八通掛、三通掛和賀川筋、夏油川筋、当八月洪水ニて大破之場処、御据人足遣残を以御普請丈夫二は出来兼候旨、申上候処、一通之御普請向二ては、来春二至り御人足高之御普請二相成候義も難計布て御百姓共迷惑可仕、大破之分見込差積申上候様御沙汰御座候之間先頃委細取調差上候処、夫々御吟味方等御間取も御座候ニ付、仕懸り之御普請弥増相後れ可申、随て此度申上候積書之通被仰付候心得を以御据人足遣残二て御普請取付居候之様、御割増之儀は追て御沙汰可被成下候旨委曲御沙汰之趣承知仕候、右貴答申上度如斯御座候、已上
九月十八日 猫塚彦四郎
竹村園右衛門
御勘定所
有馬玄番頭殿御内室死去之旨江戸より申来候二付、今日より鳴物三日御停止、普請御構無之旨被出候間此旨御承知可被成候
已上
九月十六日 久慈 弥六?
小枝指清右衛門
猫塚彦四郎殿
御状拝見仕候、然は鬼柳黒沢尻通御代官処、和賀川筋並夏油
川筋三通懸御普請処私へ兼て被仰付置候処、当八月洪水二て数ヶ処大破二付御据御人足遣払を以難相成別段御割増之儀積帳を以申上候処右積之通被仰付候、此節早俄取御普請出来栄候様可取計旨、右積帳共〃御下ヶ被下相達申候、尤出人足之義ハ御代官御達之様二承知仕候、右貴答可申上、如此御座候、已上
九月廿四日 猫塚彦四郎
御勘定処
一 筆致啓上候、然は鬼柳黒沢尻通和賀川筋、並夏油川筋、三通
懸御普請所当八月洪水ニて御据遣払御人足を以難相成、先達
て其筋御沙汰二付御立合御見分評議之上御割増申上候通被仰
付候、出人足之義ハ其御元へ御達被成候様二申来候、此節御
普請早俄取候様可被取計旨共々申参候間来ル廿六日より来月
四日迄日数九日二御割合、其筋御人足出払候様被仰付被下度奉存候、右可得御意如此御座候、已上
九月廿四日 猫塚彦四郎
三通様付
一 筆令啓達候、然(は)鬼柳黒沢尻通御代官処和賀川筋、並夏油川筋三通懸御普請処、御自分へ兼て被仰付置候処当八月洪水ニて大破二付、御据人足遣残を以御普請難相成、別段割増之儀此間積帳を以被申出候処、右積之通被仰付候間此節御普請早俄取候可被取計候、則積帳差越申候、出人足之儀は御代官へ申達候
右申入候、已上
九月廿一日 下斗米勘蔵
岡田金左衛門
太田甚内
猫塚彦四郎殿
一 筆致啓上候、然は先頃御沙汰御座候和賀川筋夏油川筋三通御増出御人足、御代官へ御達被成候御用状之趣を以御普請、今廿六日より取付申度旨御代官へ及懸合候處、其御元より御割付相達不申候付御官所限御時刻差出候義如何敷旨、尤御据御人足之外今度臨時之事故御百姓共へ熟と申達候上御村割相出候様懸合二付取付様無之相控罷在候、尤今日之間取付之義は先日其御元へ御訴申上置候間此段御含被下取付延日之段被仰上置被下度奉頼上候、尤右御割付早俄取御出し被下候様いたし度候、左候ハハ早速取付ニも至可申と奉存候、右御頼旁可得御意如斯御座候
九月廿六日 猫塚彦四郎
興津茂市様
一 筆令啓達候、然は八幡通御代官所八幡村之内葛丸川筋、所々御普請御自分仕様積へ被仰付候、則積帳差越申候、出人足之義ハ二郡中御割付被仰付候間右御代官へ申達候、右申入候、已上
下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門
太田甚内
猫塚彦四郎殿
御状拝見仕候、然は八幡通御代官所八幡村之内葛丸川筋所々 御普請私仕様積へ被仰付候ニ付右積帳御下ヶ被下相達申候、尤出人足之義ハ花巻二郡中御割付被仰付、右御代官へ被仰達候旨御沙汰之趣共二承知仕候、右貴答可申上如此御座候、已上
十月六日 猫塚彦四郎
御勘定処
一 筆令啓上候、然は里分村谷木板橋御普請昨日出来栄之旨其筋申 出候間、明十二日御立合御見分被成候様致度且つ又出来栄候ハハ各へ直々御立合見分可致旨其筋より申来、尤各へは別段御勘定所より不申越候ニ付拙者共より御掛合可申旨共ニ申来候間右可申入如此御座候、已上
十月十一日 女鹿善治
長嶺官助
竹村園右衛門殿
猫塚彦四郎殿
一 筆啓上仕候、然は黒沢尻通里分村之内黒沢川谷木板橋御普請出来栄ニ付立合見分之儀御代官より懸合二御座候間、今十二日立合見分相済申候、此段御訴申上候、右申上度如此御座候、已上
十月十二日 猫塚彦四郎
竹村園右衛門
御勘定所
一 九月廿八日より和賀川三通懸り御割増御普請へ取付、山口村新作ト申者宿三日休、横川目村新川堀田中瀬土手白石共に出来、夫より朴前市右衛門宿す十六日迄居、雪降積候二付仕懸リいたし引取右ニ付黒沢尻通御代官女鹿善治へ懸合左之通御勘定処へ差出ス
口上之覚
鬼柳黒沢尻通和賀川筋夏油川筋三通懸川除御普請処、当八月洪水二て大破二付、御据御人足を以出来栄及兼御訴申上候処増御人足御割付被仰付奉畏、去月廿八日より取付罷有候、然ル所寒川ニ相成、早俄取不申、夏油川筋之内平袋並内野、花曽根、鱒沢右四ヶ処出来栄兼、且小沢目之事故雪も少々降積場所働方埒明不申候間別紙之通書上仕候、随て来春雪代前、時節見合、遣残御人足を以御普請仕度奉存候、相成丈ハ今度不残出来栄申度木品等手合仕候得共、前書申上候通寒川ニ相成、如何ニも御人足共働兼候間来春へ御差延被仰付被下置度奉存候、随て御沙汰次第出来栄之分御代官立合得見分、来春へ、相廻候御人足出方相控候様御代官へ懸合申度奉存候、右之段地懸リ御代官へも懸合之上此段奉伺候、已上
十月 猫塚彦四郎
御勘定所
覚
一 五百五拾人 夏油川筋之内、平ノ袋、内野、鱒沢、花曽根右
四ヶ所残御人足
内一 三百五拾人 鬼柳黒沢尻通
一 弐百人 二子通
右之通来春へ相残候分書上仕候、已上
十月 猫塚彦四郎
御勘定所
一 筆啓上仕候、然は鬼柳黒沢尻通和賀川筋、夏油川筋三通懸り御
普請処御据御人足遣残候ニ付増御人足御割付被仰付候旨御沙汰御座候ニ付、去月廿八日より取付罷有候、然ル処日増寒川ニ相成夏油川筋山沢目ノ事故雪降積、御普請相成かたきニ付、別紙口上書を以奉伺候、随て残御場処来春大雪代出水前、時節見合御普請仕度旨存候間御差延被仰付被下置度奉存候、如何様ニも御人足共働方自由相成兼候故出来栄ニ至兼恐入奉存候、御人足差引書共ニ相添差上申候、何れ御沙汰被成下度奉存候、右申上度如此御座候、已上
十月十五日 猫塚彦四郎
御勘定処
猶以申上候、本文伺之通御差延被仰付被下置候ハハ来年廻シ御人足、二子通、鬼柳黒沢尻通御代官へ御沙汰被成下度奉存候、左候ハ〃私よりも出人足差引書御代官へ差遣、来春私より懸合次第出人足為相詰候様懸合申度奉存候間是又御沙汰被成下度候
已上
一 御年貢並上俵縄共ニ別て御吟味強ク盛岡より御勘定方、橋万左衛門、中嶋與三次御蔵立合、非番御代官下役共ニ相詰大俵囗俵御囗囗次第囗囗囗囗
古金銀引替之儀、国々之内ニは最寄引替候所迄も道法相隔候場所も有之、又は遠国より態々金銀座持越引替候者も有之候所、右躰遠路之所一度高多差出候ては道中持送之入用も相懸候ニ付おの(つ)から金銀高見計幾重ニも差出候之様可相成は右金銀通用之儀先達て相触候通来る二月迄停止之事ニ候得は、向後古金銀差出候者之金銀座並其最寄引替所へ道法五里余相隔、金銀高一度ニ金五百両、銀拾貫目以上差出候者へハ、里数一里往返、金百両ニ付、銀壱貫目ニ付三匁宛之割合を以金銀替え応シ被下候筈ニ候間御領は御代官、私領ハ領主地頭ニて右御入用相願
候もの取調、江戸金座銀座申立候様可致候、若当人亦は其身寄を以直々金銀座申立候旨申候ハハ其通為致候ても不苦候間何ニも厚ク世話致古金銀所持之ものハ為引替候様可致事
右之趣可被相触候
閏八月
右之通此度従公儀被仰出
九月
前書之通被仰出候条此旨承知可被成候、以上
九月晦日 久慈弥六?
小枝指清右衛門
猫塚彦四郎殿
覚
一 御金奉行
万所奉行
御側御用達
孫御蔵奉行
大御納戸奉行
御銅山方
御勝手方
御勘定方
右役筋ハ専ラ御金銭取扱候事ニ(候)得は平生之行状は勿論縦 令相続向可成ニ取続候者たり共須家作並飲食等格別ニ質素ニ心懸、他之批判等を請不申様可致事ニ候所、右之勤筋被仰付候得は普請並飲食共ニ自然ト驕ニ相見得平生之出会共ニ美食を用候様相聞得候、甚不埒之至ニ候、別え一両年来厳敷被取〆りも被仰付候ニ付ては猶更役所柄斟酌も可致所無之儀相聞得候儀畢竟役筋之本旨を失候事ニ候依て夫々急度可被及御沙汰候事ニ候得共、此度は御憐憫を以右御吟味ハ不被仰付候間向後之義ハ懸て右の御趣意勘弁致幾重ニも諸事質素ニ心懸可申す
ヶ様二及御沙汰ニ候ては若心取違之者も有之候ハハ、勤懸は勿論、其外之者共ニても右様之出会等へ受候者も相聞得候ハハ同様無調法可被仰付候事
九月
覚
一 先達て御沙汰通法事等之節菩提寺へ懇ニ可致執行仏事等ニて
銘〃宅へ出家等相招候儀相成不申旨御沙汰被成来候処、頃日ニ至自然ト相弛候様ニも相聞得不埒之至ニ候、已来決て相扣可申候、尤祥月年回等之節親類共相招キ料理差出酒興同様ニ酒等相用候儀は決て相扣都て先達て被仰出候御趣意急度相守可申事
九月
覚
一 諸檀家之者祥月並法事等之節檀家之者宅へ被招候共罷越申間敷旨御沙汰兼〃被成置候所、頃日ニ至自然ト相弛罷越候様ニも相聞得不埒之至候、俗家へ僧呂罷越候儀相扣候様先達て委舖御諭シ被成置候事故銘々相心得居申儀ニ候条、以来は決て仏事等ニ付檀家之者被招候共必相断罷越申間敷事
九月
一 筆令啓達候、然は鬼柳黒沢尻通和賀川筋夏油川筋三通掛川除御普請兼て被仰付置候処最早寒川にも罷成候上山沢目ニ御座候得は雪降積人足働方相成兼候間是迄出来栄之外来春迄御延被成下度旨委曲伺口上書を以被申出候處伺之通被仰付候、尤来春ニ至雪代出水前、時節見計御普請取付候様可被取計候、其節遣残人足之義は鬼柳黒沢尻通二子通御代官へ可申達候間、取付之節は前広可被申出候、右申入候、已上
十月十九日 佐々木多助
下斗米勘蔵?
栃内瀬蔵
岡田金左衛門?
太田甚内?
猫塚彦四郎殿
御状拝見仕候、然は鬼柳黒沢尻通和賀川筋夏油川筋、三通掛川除御普請兼て被仰付罷有候処寒川ニ罷成、且山沢目之事ニ御座候得は雪降積御人足働方相成兼候ニ付是迄出来栄之外来春迄御延被成下度旨口上書を以伺上候所伺之通被仰付、尤来春ニ至雪代出水前、時節見計御普請へ取付候様取計可仕、其節遣払残御人足之義ハ鬼柳黒沢尻通、二子通御代官へ御達可被成候付、取付之節前広申上旨委細御沙汰之趣承知仕候、右貴答可申上如此御座候、已上
十月廿六日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 筆啓上仕候、然は鬼柳黒沢尻通和賀川筋夏油川筋之内先頃伺之
通被仰付候出来栄之御場処二子通鬼柳黒沢尻通御代官立合今日見分相済申候間、此段御訴可申上如此御座候、已上
十月廿七日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 筆啓上仕候、然は御沙汰御座候八幡通之内八幡村葛丸川私仕様積へ被仰付候、随て右御普請取付可申事ニ奉存候得共此節雪降且寒川ニ相成如何様ニも丈夫堅地之御普請ニは至兼可申、奉恐入候間、来春雪代前、時節見合取付申度奉存候間来春迄御差延被仰付被成下度此段奉伺候、右伺之通被仰付被下置候ハハ二郡中御代官へ御沙汰被成下度奉存候、尤来春取付之節私より御代官へ懸合候ハハ御人足出払候様共〃御沙汰被成下度奉存候、右御普請只今埒明不申趣より、地懸り御代官へも懸合之上此段奉伺候、右御伺可申上如是御座候、已上
十月廿日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 筆令啓達候、然は八幡通御代官所八幡村之内葛丸川筋処〃御普請御自分仕様積へ先頃被仰付置候処最早降懸ニも罷成弥増寒川ニて堅地之御普請向ニも至兼可申ニ付、来春迄御延被成下度之旨委曲被申出候處申出之通被仰付候間来春ニ罷成候ハハ雪代前時節見計御普請取付様可被取計候、二郡中御代官へは被申出候之趣を以申達候、右申入候、已上
十月廿三日 佐々木多助?
下斗米勘蔵
栃内瀬蔵?
岡田金左衛門?
太田甚内
猫塚彦四郎殿
御状拝見仕候、然は八幡通御代官所八幡村之内葛丸川筋処〃
御普請私仕様積へ被仰付置候処最早降懸りニも罷成弥増寒川ニて堅地之御普請向ニも至兼申候ニ付来春迄御延被成下度旨伺仰上候処、申上之通被仰付、尤来春ニ罷成候ハハ雪代前、時節見計御普請取付候様可仕、二郡中御代官へは申上之趣を以御達可被成旨御沙汰之趣承知仕候、右貴答可申上如此御座候、已上
十一月廿六日 猫塚彦四郎
御勘定所
鬼柳通御百姓共騒立一件
十一月十七日夜、鬼柳通下鬼柳村上鬼柳村岩崎村御百姓共騒立、大田村清水へ五六十人参候得共、跡勢不参引取候よし、翌十八日晩五十参候得共是も夜半時分引取、翌十九日越囗川向四十五十人罷通候ニ付追駆轟木村内室清水ノ西、あた久保と申所ニて追付、尤御代官久慈弥六殿清水ニ留方ニ詰居候ニ付為知遣候処早速被相越、段〃願筋承候処、当年御年貢米御吟味強、尤
当年柄青米すくれト米生あしく如何様にも御買上上納仕様無之、半分御免被成下度願、借銭数年ニ相成相続面倒ニ相成候間、三十ヵ年賦ニ被仰付被下度願
一 上俵縄被仰付候通上納仕候得共御取柄無之壱枚ニ付五十文宛銭ニてとられ迷惑之願、右三ヶ処より外願無之候旨申立早速取次盛岡へ久慈弥六殿立遣候、右御百姓共ハ専ラ北鬼柳村之由、乍去相尋候処、町分村、里分村三ヶ村之由言出ル
右御用ニ付御目付奥末人下河原志津馬、御徒目付佐々木伊兵衛照井栄左衛門御同心六人黒沢尻町へ来
久慈弥六鬼柳通御代官被仰付候旨同人より申来候、此旨承知可被成候、已上
十二月廿二日 小枝指清右衛門
猫塚彦四郎
去月十九日付貴書参着致拝見候、寒冷趣候得共、将軍家若君(様カ)御安全致恐悦御同意候、将又貴客御壮健、此節緩〃被成御休足珍重存候、不佞儀無異罷在候、当年御入部之儀珍重、御国内御巡覧被成候由、嘸可有御座存候、御出立前も申置候通都て鷹野杯ト申儀は何国ニても其模様を見、民を愛察し、仁政布施致候事ニ候、是も聞伝ニては無詮候、専以賢有司ニ聞届且見届無之候ては決て不宜候、入部致候ても士民之尊敬格別成故自然ト奢心も出来、自ラ私過成物ニ御座候、領主は其民之慈母ニて候間家中風俗ハ不及申、三民共ニ心を賦悪ニ不落様ニト晝夜心懸候事肝要ニ候、貴客杯は御門葉ニて御座候得は格別御政令も有之候得共其身不正候得は謂レ令不レ行勿論士民懐申間布、士民懐不申候ては、金相帰不申候、国主領主心得可有事候、小身之衆中ハ自国務をも不相計候得共、大身ニ候得は夫〃之有司も多候故兎角政道も不行届ものにて候、只〃其情ニ通、苦楽民与共可致心得尤ニ存候、専共有司たるもの之器量を能〃領察、民として不苦様御工夫第一存候、右躰被成候得は当分御勝手ニ不相成候得は、かつて夫〃万全御安堵ニて候、惣て当分を相務
候事終毫微先非ニて為主人者之大恥ニて候、只〃長久を御心懸可被成候、貴客御事は年若ニて候得共御志厚候故不顧思召善を責ては明友之道ニ候間御免可被下候、国主領主トしてハ国家之悪風俗も改易成兼候ては不相成事存候、来年猶御参府之節は仕置之筋承度、数多申度候得共素〃トハ短才ニ候得は心底程ニは書底程ニは書取かたく、早々及び御報恐々
十一月十一日 細川越中守
主賢之据判
松平越後守様
一 筆令啓上候、然は昨日黒沢尻通御百姓共差留取扱之旨趣此旨御目付下川原志津馬奥末人罷越候ニ付申聞候処、御自分黒沢尻迄相詰居候様可申遣旨懸合ニ御座候間、此状参着次第早々御越御待合可被成候、支度次第最早御目付両人此元お立黒沢尻へ罷越候旨ニ御座候、右可申入急付を以、如斯御座候、已上
十一月廿九日 小枝指清右衛門?
猫塚彦四郎殿
鬼柳黒沢尻通和賀川筋夏油川筋三通懸り御普請当年中遣払並残御人足書上上帳
覚
一 七千六百人 和賀川筋夏油川筋三通懸り御据人足元
内
一 三千弐百人 右は当春より夏迄御繕御普請処、横川目村高屋 敷前、下江釣子村畑中前、朴前、小森前、川内家前、野田前、岩崎村杉本、上中嶋、夏油川前宿御番所前、花曽根、南舘、上夏油共出来栄
残り 四千四百人 引
外ニ 弐百人 右は去年遣払残り、御人足書上仕候処、竹村園右衛門私へ御預り差置候分
合〆 四千六百人 有御人足
外ニ
一 四千八百七拾弐人
右は八月十四日拾五日洪水ニて数ヶ所大破ニ付御据人足ニて出来栄相及兼候ニ付御割増被仰付候御人足元
〆 九千四百七拾弐人
内
一 弐百七拾人 右は和賀川筋山口村田中瀬岡土手並白衣ト申処畑欠込根〆出来栄
一 五百七拾八人 右は煤孫村宿田と申処、川前石組土手置上惣出来栄
一 七百七拾壱人 右は岩崎村六里並上中嶋ト申所御年貢街道築立川前根〆石組惣出来栄
一 七百五拾人 右は横川目村之内高屋敷前水分新川堀立並欠込根〆石組惣仕上
一 千人 右は下江釣子村畑中前道代用水堰欠込惣仕上出来栄
一 九拾人 右は同村之内砂田前欠込之処惣仕上出来栄
一 三千五百三拾人 右は同村之内朴前新川堀替、本川留地並屋鋪地欠込根〆岡土手惣仕上出来栄
一 四百九拾八人 右は同村之内押地築立並根〆組惣仕上
一 千九百八拾五人 右は夏油川筋、上夏油、吉田、滝沢、南舘、宿御番所前、出来栄相済申候、尤平ノ袋、内野、鱒沢、花曽根右四ヶ所は雪降御人足働方相及兼候ニ付、其節伺上候処、伺之通来春迄御差延ニ被仰付候、右四ヶ所御人足五百五拾人相残其節書上仕候
〆 九千四百七拾弐人
内
一 五百五拾人 右は夏油川筋四ヶ所来春より(迄カ)御差延被仰付御人足二子通鬼柳黒沢尻通御村々へ御割戻ニ御座候
残り八千九百弐拾弐人 当年惣遣払
右の通先達出来栄之分御代官立合見分相済候ニ付、当年中遣払
御人足共ニ書上仕候、已上
一 筆啓上仕候、然は鬼柳黒沢尻通和賀川筋並夏油川筋三通懸り
御普請先達て伺上、伺之通被仰付、尤出来栄之分御代官立合見分相済、御訴申上候通当年中遣払残御人足共ニ別紙を以書上差上申候、右可申上如此御座候、已上
十一月廿八日 猫塚彦四郎
御勘定所
文政九年十一月
覚
一 御家老 八戸上総
高祖父九大夫養父竹之助遺跡家相続申付候節、本地弐千石之内半地千石ニて相続申付、相残候千石本家弥六郎義長へ其節預地遣候処、其後弥六郎義済之節右預地之分指上候趣ニ付吟味候処無相違候、依て其方儀御先々様より相勤、数年用向深ク心を用相勤御満足致候、別段存入も有之候ニ付指上候千石之内三百石遣候へば、右之通於御前、被仰渡候
囗囗囗囗より囗囗囗囗
一 筆啓達候、御自分儀御用有之候間、此状参着次第出府可有候、右申入候、已上
六月十三日 中里利左衛門
下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門? 太田甚内?
猫塚彦四郎殿
一 筆致啓上候、弥御堅固被成御勤珍重奉存候、然は花巻二郡中密木内々吟味方先達被仰蒙候処、其後紛鋪木品等御見当も無之哉、村方密々御吟味被成候御次第不被仰越候ニ付、右之趣拙者より御内々可得御意旨岡田金左衛門殿御達御座候、格別之御趣意有之内吟味方被仰付候御次第ト相聞得申候、二郡川筋通夜中紛敷木品川下或は船等ニて持賦候様ニも相聞得候間、密々御吟味、無極印之木品御見当被成候ハハ御捕押被仰上候之様致度候、村方ニも都て花巻町方共ニ無御斟酌御捕被仰付候事ニも御座候得は御勤柄向宜可有之奉存候、何れ吟味方被仰蒙候後其元様子も不被仰越候故態々御囗囗囗囗御沙汰被成候御趣意ニも相当不申候間右沢合拙者より委敷可得御意旨御同人御達御座候儀精御吟味之上無極印之木品等有之候ハハ、御捕押被仰上候様致度候、否御報可被仰遣候、右可得御意如斯御座候、已上
十一月十六日 宮清治印
猫塚彦四郎殿
猶乍内状印形相用候已上
去ル十六日付御状拝見仕候、弥御勇健被成御勤仕珍重之御儀奉存候、然は先達相蒙候花巻二郡中密木内々吟味方紛敷木品当見当も無之哉、御村方密々吟味相廻候次第も不申上候ニ付、右之趣御内々可申聞旨岡田金左衛門殿御達御座候ニ付、尤格別之御趣意有之内吟味方被仰付候御次第、且二郡川筋通夜中紛敷木品川下或ハ無極印之木品川下見当候ハハ捕押可申上旨、御村方ニても都て花巻御町方共ニ無斟酌吟味捕押、私勤向宜可有之旨共ニ被仰下候、右吟味方相蒙候後此元様子も不申上候事故態々御呼出ニて被仰付候御趣意通ニも相当不申候、右訳合委鋪可申聞旨御同人御達ニ御座候旨遂一被仰下御紙面之趣致承知候、随て先達て御呼出候て罷出候節、金左衛門様極密内々吟味方被仰付候趣、御人多キ中、御見出被仰付候ニも候間、無油断吟味可致旨被仰含相蒙罷有候間、不絶気ヲ付駆廻候得共格別之御制木之無極印見当不申被仰付候御趣意ニも応し不申、誠ニ奉恐入、日夜心配罷候、今度猶又御同人様より御達之趣感心
仕候間、縦令花巻城下ハ不及申、外町中ニても見当次第捕押早速申上候間、是迄此元模様一園不申上罷有候、無調法之段重々奉恐入候、宜御執成被仰上置被下度、偏ニ奉願上候、右貴報旁相願可申上如斯御座候、已上
十一月廿九日 猫塚彦四郎
宮清治様
猶以乍内状印形相用申候、已上
一 筆致啓上候、然は先達て御内密御用相蒙所々気ヲ付駆廻候得共見当不申罷有候、然ル所昨夜七ツ時黒沢尻通へ御用有之、花巻より罷出候所、拾弐丁目村往還筋、宿ト申所ニて材木附馬数十疋ニ逢候ニ付見咎候所、右之者共他領入之材木之由申候得共、疑敷と存吟味仕候内右之者共木品捨置逃去申候ニ付、右員数相改拾弐丁目村肝入へ為預置、尤右預始末請取申候、此旨宜岡田金左衛門殿へ被仰上被下度奉頼候、右可得御意如斯御座候、
已上
十一月廿八日 猫塚彦四郎
宮清治様
猶以本文之次第ニ御座候得は名面ハ相知不申候、此 段御含被仰上被下度候、已上
一 筆令啓達候、然は御自分儀、密木内吟味方被仰付置候ニ
付、為手当金弐百疋被下置候間頂戴可有候、右申入候、
已上
十二月廿七日 佐々木多助
下斗米勘蔵
栃内瀬蔵
岡田金左衛門
太田甚内
猫塚彦四郎殿
御状拝見仕候、然は私儀密木御内吟味被仰付候ニ付為御手当金弐百疋頂戴被下置難有仕合奉存候、右御請為可申上捧愚礼候、恐惶謹言
十二月晦日 猫塚彦四郎
太田甚内様
岡田金左衛門様
栃内瀬蔵様
下斗米勘蔵様
佐々木多助様
文政八年
一 筆令啓上候、然は旧冬拾弐丁目村ニて杉山成追落分、入札払被仰付候処、壱番札四貫文ニて被下置候旨申来取上上納致
候所、右之内弐貫文御自分へ被下置、此度下役熊原角蔵代印を以請取相達申候間、則歩ト三百文指越申候、此旨御承知御請取可被成候、右可申入如斯御座候、已上
二月四日 田鍍要之丞
小枝指清右衛門印
猫塚彦四郎殿
七月九日上堰密木流通候旨相聞得候ニ付、早速後藤村笹長根へ駆付一々遂吟味肝入へ右木品預置、預始末取
覚
一 杉廉料 五丁
但長サ壱間、尺角
一 松廉料 五丁
但長壱間、壱尺角
一 松丸太末木、弐拾壱本
但長壱間半、本口壱尺廻
一 杉こかき百三拾枚
但長五尺幅五尺(寸カ)厚壱寸五分
右之通無極印木、当村蔵之丞ト申者へ為預置申事無相違書付差上申候、已上
酉七月九日 後藤村肝入 八兵衛
猫塚彦四郎様
口上之覚
一 杉廉料 五挺
但長壱間、一尺角
一 松廉料 五丁
但長壱間、一尺角
一 松丸太末木、廿壱本
但長壱間半、本口壱尺廻
一 杉こかき百三十枚
但長五尺、幅五寸、厚壱寸五分
右之通昨九日黒沢尻通後藤村笹長根ト申処ニて無極印材木追落、同村肝入八兵衛へ預置申候間此段申上候、已上
七月十日 猫塚彦四郎
御勘定所
一 筆啓上仕候、弥御安泰御勤仕被成御座珍重之御事ニ奉存候、然
ハ此度黒沢尻通後藤村笹長根ト申処ニて別紙材木附通候者御座候間、相改可申追懸候処、右材木捨置、馬人共ニ逃去、材木相改候処、無極印ニ付、同村肝入八兵衛へ預置申候、依て御訴書差上申候、可然被仰上被下度何分奉頼上候、右可申上如斯御座候、已上
七月十日 猫塚彦四郎
葛良作様
長沢和七様
久慈野助様
八里治六様
|
|
|
|