中国・西域の旅
1991年8月16日(金) 火炎山の麓


  タイマーでセットした扇風機が止まる度に目が覚める。暑い。7時半起床。夜明けの招待所周辺を散策。葡萄棚の下で寝ている人や庭に木組のベッドを持ち出し寝ている人多し。室内より涼しく、気持ちがよさそう。招待所の前はトルファン第一中学、近接して市人民政府、地区共産党委員会の建物。8時20分、日の出。洗面。高さ1mほどの囲いしかない便器、シャワー、洗面台の並ぶトイレでの洗面は臭いが鼻につく上になんとなく落ち着かない。
 予定を早め、9時に出発、緑洲賓館へ。ロビーの郵便局でトルファン葡萄祭のFDCや絵はがき購入。朝食は粥、饅頭、幾種類かの薬味のようなおかず。
 10時賓館発。高昌故城へ。左手に火炎山を見ながら砂漠の一本道を走る。火炎山人民公社の標識の残る集落を抜けると荒涼とした遺跡、高昌故城。ここでもビデオ撮影は禁止。バスに残す。入り口から驢馬タクシーにて内裏へ。とにかく広大な遺跡だ。アドベ(日干し煉瓦)造りの建物や城壁のほとんどは泥の山と化している。それでも乾燥気候ゆえに1000年以上も自然によって保存されてきたのではあるが。発掘、修復作業も行われているが、広大な遺跡の全てを完了するには気の遠くなるほどの時間と費用がかかるであろう。僅かに壁画の残る寺院跡など見学、40分あまりの滞在で、次の目的地アスターナ古墳群へ。
 古墳群は人民公社の北の外れにある。ここもまたビデオは禁止。写真も古墳内は禁止。教科書等にもよく掲載されている有名な壁画と古墳内に安置されているミイラ2体を見る。死して1000年以上後の人々に自分の遺体をさらすなどとは思ってもみなかっただろうに。
 接待所で西瓜を切ってくれる。喉の渇きに西瓜、ハミウリは最高の贈り物。
 再びバスにて、古墳群の北、火炎山山中のベゼクリク千仏洞へ。
赤色砂岩の山肌と、その風化土の堆積したペジメントのおりなす光景に圧倒されながら、谷筋に沿って20分余り、左前方の砂のスロープに泥人形の三蔵一行。折角の自然の造形を台無しにしている。まさに興ざめ。どうも中国では観光客誘致政策の一環として遺跡や自然の造形物に手を加えることによって、折角の観光資源や文化遺産を壊したり、傷つけているようだ。
千仏洞は火炎山を削る谷の急崖に掘られている。谷底の緑、赤・黄・茶褐色の岩山とむき出しの砂礫層、抜けるように青い空。千仏洞付近の景観はすばらしい。窟の多くは閉鎖されており、3つの窟のみ見学が許されていた。見事な壁画が残っているが、その一方でイスラム教徒によって泥で塗りつぶされた壁画や観光客によって傷つけられ、落書きの残る壁画も多い。何より欧米の探検家たちによってはぎ取られ持ち去られた空白の壁画には痛々しさより腹立たしさを感じた。
トルファンへの帰途、火炎山の麓で写真撮影ストップ。赤色の風化土を一握りビニール袋に入れる。
 隣席になった旅遊社のトルファン駐在のガイド李軍君、東京弁と大阪弁のちゃんぽんで話す日本語で生い立ちを聞く。両親は日本人残留孤児とのこと。日本名松尾修。李君を中国に残して帰国。養父母に育てられたとのこと。長春大学を昨年10月に卒業し、1年余り就職浪人、一昨日からトルファンでの勤務になった由。仏教に興味があり、日本の大学で是非勉強がしたい、日本に帰りたいともらす。
 14時頃賓館に戻り、早めの朝食。ミネラルウォーター1本2.5元用意。
 14時50分、ウルムチに向け出発。ゴビタン、蜃気楼、不毛の地。水あるところ大小のオアシス。道路と平行に走る蘭新鉄道をゆっくりと列車が行く。
 昨日と同じ道、同じ場所でトイレ休憩。
 19時丁度、華僑賓館に到着。夕食をとり、売店にてカシミアのベスト2着(444元)購入。19時50分賓館発、ウルムチ空港へ。
 21時15分発の新彊航空カシュガル行きに搭乗。座席27F、また主翼の上。太陽の位置が悪く、下界は見辛い。時々氷雪を頂く天山が眼中に。
 22時35分、蛇行する尻無し川沿いに飛ぶこと数分で、無事カシュガル空港に着陸。今日は迎えのバスも来ており、全てスムースに。大型バスで車内はゆったり。カシュガル新賓館着23時20分。やっと日が暮れる。トルファンより1時間遅い。207号室。今日もKM先生と同室。2日ぶりに荷物を広げ、整理する。1時、入浴、洗濯。