| シリア・ヨルダン旅日記 |
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| 1993年8月24日(火) マリ遺跡からパルミラへ |
熱は少し下がったが身体がだるく、下痢気味。
6時30分、モーニングコール。7時からの朝食は断る。 7時30分、ホテル発。ユーフラテス右岸沿いにマリの遺跡まで。
途中、デリゾール(Deirezzor)のシャーマパレスホテルでトイレ休憩。
デリゾール大橋の畔のレストランに立ち寄り昼食の予約。
日差しを避けるつもりで、左側窓際に席をとったが、南東方向に走れば、左前方より直射日光が差し込むのは当然。ますます体力を消耗する。勢いよく流れる用水路の畔に座り水煙草を楽しむ農夫がうらやましい。ユーフラテスを挟み、両岸数キロがオアシス。
紀元前3000年から1700年頃に繁栄したといわれる都市国家の跡、マリ遺跡は、「マリ文書」と呼ばれる粘土板に書かれた当時の王室の公文書が多量に出土したことで知られている。メソポタミア文明の遺跡の多くがそうであるようにテルと呼ばれる丘の一つがマリの遺跡であった。丘の全てが発掘されているわけではなく、今後の調査によっては何が見つかるかわからない。遺跡の管理人の子か4、5才の少年が一人ついて回る。
紀元前1757年、バビロンのハンムラピに滅ぼされ破壊されたマリは、資料の上では以前から知られていたが、場所はわかっていなかった。それが偶然のきっかけ(ベドウィンが墓穴を掘っていて)で発見されたのが1933年であった。「マリ文書」の中には、当時の宮殿のすばらしさを書いたものもあり、実際、宮殿の敷地は2.5ha、部屋数300という。宮殿だけでこの広さだから、町の規模は推して知るべし。延々と土山が広がっており、全てを発掘するには気が遠くなるほどの年月が必要であろう。
遺跡の入り口に白壁、平屋根の民家が1つ。ワンピース状の民族服の少女が五人、恰好の被写体になり、カメラの放列。葦簾を張った茶店で紅茶を頂き一息つく。
マリとデリゾールの間の砂漠の中で油田開発が進められていた。
帰途、マリの北西15kmほどの位置にあるドウラ=エウロポス(Doura Eurupos)の遺跡に寄る。ここもユーフラテスの右岸に位置し、城跡をえぐるようにユーフラテスが流れている。紀元前300年頃にセレウコスが砦を建てたのが始まりという城塞には銃をもちオートバイに乗った管理人(?)が一人いた。疲れた観光客を城門からユーフラテスの崖縁まで300m余り荷台に乗せ幾ばくかの金を貰っていた。
この遺跡にもローマ時代の陶器の欠片が無数に散らばっていた。2000年の年月は壮麗な宮殿も頑強な城塞も全て土の山に変えてしまう。遺跡を訪ねる我々にはかろうじて残った煉瓦造りの建物の一部や散在する陶片に歴史の一端を垣間みせるのみ。もし、それらがなければ、広漠とした荒れ野か、レグ(礫砂漠)。
デリゾールに戻り、釣り橋(デリゾール大橋)の畔のレストランで昼食。13時30分〜15時30分。
トマトとキュウリのサラダにホブス(アラビアパン、ナン)にホンモスのおきまりコース。食欲は全くなし。スイカを食べたのみ。豊橋の医師、Yさんがくすり一式をくださる。この薬が効いたのかしだいに体調が回復する。
デリゾールからは南西方向に220km、パルミラに向かい一路シリア砂漠を走る。対向車もほとんどない。たまにタンクローリーやトレーラーに出会う程度。集落もほとんどなく、遊牧民の姿も少ない。
18時過ぎ、パルミラのシャームホテル着。205号室に。
18時45分、希望者が集まり、エフカ温泉に。地下深い洞窟の中の鉱泉。かって、パルミアの女王ゼノビアも入ったという。イオウの臭いがするが泉質は分からない。意外に透明な水。この水はホテルの前で地表に出る。まさにこの水こそがオアシス都市パルミナの生命線。
夕食は、肉類はともかく果物は喉を通る。
21時15分、バスでベドウィンのテントを訪ねるという。期待して出かけたが、まさに観光用。中庭に建てられたテントには色電球がぶら下がっている。折り畳みのイスがあっては興ざめ。アラックにアラビアンコーヒーを飲み、ベドウィンミュージックの演奏を聞く。一行はダンスの輪に入り、浮かれているが、どうも最初の印象悪し。気分乗らず。
23時過ぎホテルに戻る。