悲劇の大地17
「悲劇の大地」

「感想文集」

今回参加した学生

佐藤良子さん(早稲田大学4年)

 一面の畑や草木生い茂る明るい緑の中で銃撃戦があり、多くの人が死亡したことは正直言って信じ難かった。梶田さんや白髪さんが側にいても当時のイメージは、はっきりとはわからなかった。51年という月日が長すぎるのだろうか。

 多くの人が目の前で殺されたり、まして、自分の子の首を母親が絞めるなどとは、どれほど辛いことだったろうか。亡くなった息子さんを埋葬した場所で、手を合わせる梶田君子さんの横顔を見ながら、そんなことを思った。

 今回の旅は、ただ見聞を広めるための旅行ではなく、過去の歴史と人の思いにふれた旅であった。前回韓国に行った時にも感じたが、戦後51年たった今でも日本の侵略に対するアジアの人の反感 は強く残っている。

 人の思いは年月を経ても在り続けるものだと思う。中国人の想い、アジアの人たちの想い、梶田さんや白髪さんの想いを語ってもらい、そして伝えていくことは、アジアの国々と友好に繋がっていくものと私は信じている。


  

岩崎康博君(香川大学1年)

 大主上房開拓団の足跡を尋ねてみて思ったことは、デカイということです。日本でこの話を聞き取りしたときに思い浮かべた時は、日本の土地の大きさでしか考えることができなかった。しかし、実際に中国の広大な土地を見て、そこに道や畑を作っている様子を想像した時、初めて開拓団の本当の苦労を知ることができたと思う。

 そして、逃げて日本に帰るためにあの長い道程を歩き続けた人たちの気持ちがわかったような気がした。

 僕のこの旅行の一番の目的は、実際に目で見、肌で感じて感触を知ること。

 第二に、この土地で暮らしそして逃げのびるために必死だった人たちの気持ちを感じること。この旅行を通じて、どちらも目的が達成できたのではないかと自分で満足している。

 初めての海外旅行、苦しかったけど、これからの人生にいかせるものになったのではなかろうか。


小川秀一郎君(早稲田大学4年)

 今回、日本人では普段いけないところにいける、また開拓団の方がまだ生きておられるチャンスを逃したくなく、青木先生に誘われて参加した。

   日本軍が第二次世界大戦の時、中国に対し非人道的行為を取ってきたことは有名であるし、私自身同年代の大学生と話をしても知っているほうだと自負していた。

                  本当の戦争被害者が、中国という国であり、中国人民であり、日本国民であることに改めて驚いた。別に集団自決や玉砕を知らなかったわけではない。ただ、現実に中国に来て、その人たちの亡くなった場所に立ち少しでも歴史的事実の距離が短くなり、胸にダイレクトに痛みが入ってきた。

 私たちは開拓団の人が逃避行した逆の道を車で走た。私としては、この体験をしていない日本にいる人にどう伝えるかが、大きな課題だろうと思う。

 そして、日中友好をはかるためには、まず「言葉」だと思った。お互いに心から分かりあえるためには、私たちが中国語を学び、中国の若い人が日本語を学び交流することが大切だと思った。


                                   

川井崇雅君(香川大学1年)

 「満蒙開拓団の人々は、いったいどんな気持ちで満州に渡っていったのだろうか」

 今回の旅はそう思わされることが多かった。初めて見る中国という国の広大さ、言葉、習慣、全てが日本とは大きく違う。そして、中国の人々の気持ちに対して、今回の旅は考えさせられた。

 旅の中で、私は中国人に執拗な視線を何度か向けられた。それは、旅行者に対する興味というより「日本人がここで何をしているのか」という気持ちが含まれていたような気がしてならない。また、開拓団跡地に建物などがほとんど残っていないのに気がついた。残すか否かを考える以前に、怒りで壊したのかとも思った。

 道は長かった。本当に長かった。現代人をこの地に送って同じ条件で帰ってこいと言ったら何割が生き延びて帰ることができるだろうか。この旅のおかげで、白髪さんや梶田さんに対して何か新しい気持ちを向けることができるようになった。


     

森川友和君(早稲田大学二年)

 アジア・太平洋戦争を語る時、加害的側面と被害的側面がある。日本では、後者のほうが圧倒的に多い気がする。

 加害の記憶は忘れたいと思うのが普通です。ひどいのは加害の事実そのものを知らない人が、特に若い世代を中心に多いということです。

 もちろん日本だけが悪いとか、七三一部隊がすべて悪いなどというつもりは全くない。ただ、たった50年ほど前に日本軍によって行われた残虐行為の数々を、しっかり見つめる目は必要だと思います。過去を正しく見つめる目を持たない人に、現在・未来を語る資格はないと思います。

 「反戦・平和」を軽々しく語る人は多いが、過去をきちんと見つめる目、特に我々若い人たちには、必要だと思いました。


渡辺慎一氏(岡山県県会議員)

 私は、今回の視察旅行程、感激と感動の旅はない。

 今春早く岡山市日中友好協会の三島会長、玉野光南高校の青木先生、そして開拓団の梶田栄一さん、白髪真吾さんが、議会に私を訪ねてこられ、岡山県の開拓団及び義勇軍に対する理解、対応の遅れを指摘され、今回の視察慰問団にお招きされてから、この気持ちは今も続いている。

       一つは、開拓団・義勇軍ともにその当時(昭和7年以後)の国策に沿って日本のアジア侵略の先兵に満州へ派遣され、最終的には大きな犠牲を強いられたのである。それらの人を弔うのは我々の責務だ。  二つは、ソ満国境の警備もさることながら、当時の日本の人口と食糧問題を考える時、「五族協和」とか「王道楽土」など美名をもとに、満人(中国人)たちの国土を侵奪し、開拓団や義勇軍の凍てつく中で過酷な労働によって国内の食糧危機をここでカバーしょうとしたのではないか。それは関東軍の力を強くすることのもなる。

 一体それはどんな所だったのか。51年以上経った今はどうなっているか。先人の苦労を思うとき、ぜひ一度この目で見たいと思った。

 三つめは、私は昭和6年生まれ、私よりも1〜2つ大きい人即先輩は、国・県・市町村の推薦や奨励によって(半強制的な面もあったと聞く)これに応え、大志を抱きつつこれに参加され、義勇軍に派遣されているのである。私は、同じゼネレーションである。

 昭和史を考えるとき、大きな検証になると思ったからである。


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