『ムグンファの季節』 第1章


六月末、私は宇野駅の前に佇んだ。五十一年ぶりに来た日本だ。あれから半世紀もたった。あの頃とはすっかり町並みが変わっていた。二〜三百メートルほど歩いてフェリー乗り場にきて、瀬戸内の島々がかすかな記憶を呼び戻してくれた。私は行くあてもなく取りあえず市役所に行ってみた。受付係のお嬢さんに尋ねた。

「私は、韓国から来ました金東奎といいます。私は、五十年前にこの地の造船所で働いていました。いまでもその造船所はありますか。あったら訪ねてみたいのですが」

「ちょっと待って下さい」

受付係のお嬢さんは、あわてた表情で奥へ走っていった。私は、五十年ぶりに使った日本語に自信がなかった。テレビを見たり、本を読んだりして日本語を聞くことも、読むことも不自由はないが、話すことはだけは戦後一度もなかったので、とても心配だった。

総務課の課長さんが、名刺を出して挨拶にきた。

「私は、韓国からきました金東奎といいます。七十二歳です。私は、二十一歳の時こ の地にあった造船所に来ました。その頃の名前は、金本東といいました。協和隊という名で三千五百名の若者が、ここへ働きに 来ていました」

「そういう話なら、ちょっと待っていただますか。当時のことを研究している地元の先生がおられますから、電話でちょっと来てもらえるかどうか聞いてみますので、あ そこのロビーで座って待っててくれませんか」

総務課の課長さんが、ロビーのソフアーに案内をしてくれた。受付係のお嬢さんが持ってきてくれたお茶を飲みながら、やっと来れたか、という思いが込み上げてきた。

ソフアーに座って、半世紀前のことが思い起こされた。


昭和十九年八月の夏。朝鮮半島に降りそそぐ日差しは、肌を射るようであった。蝉は、朝から鬱陶しく鳴き続けたし、無窮花は白い花びらの中心部に濃紅色を染み込ませているが、今年はやけにその赤味をましているように見えた。いつもは雨の多い八月のこの半島に、あの五年前の旱魃で半島南部が大凶作になった時ほどでないにしても、今年も三年続きの日照りが続くのではないかと、この国に住む人なら誰もが恐れた。

「トントン」

「はい、どうぞ」

はっきりした日本語が返ってきた。

「入ります。この度、朝鮮拓殖銀行鉄原支店から転勤してきました金本東です」

「どうぞ、私は春川支店長の近藤重吉です」

白いシーツの応接間の椅子に深々と座ると、支店長は煙草に火をつけた。

「早速ですが、金本東さんは春川中学卒業後、鉄原支店に勤められていたのですね」

「はい、そうです。窓口に二年、融資に二年いました」

「いま、何歳ですか」

「二十一歳です」

ふと顔を上げてみると、支店長は恰幅のいい五十歳がらみの髭をはやした日本人であった。

「では、春川についてはよく知っていますね」

「ええ、母がこの町に一人住んでいます」

「そう、では少し慣れるまで窓口で勤務してください。後の細かな事は、総務課長の指示に従って下さい」

総務課長の林さんに案内された行内の小さな食堂で簡単な打合せしていると、ラジオがニュースを報じていた。軍艦マーチの伴奏。

「大本営発表。帝国陸海軍最高戦争指導会議による『世界情勢判断及び今後採るべき戦争指導大綱』の決定に基づき、朝鮮総督府では、この度、『半島人労務者の移入に関する件』を決めました。これにより、『国民徴用令』による一般徴用を半島でも発 令することに決定しました。阿部信行総督の談話によれば、東亜の興亡に鑑み、半島青年を生産隊列に加え聖戦の完遂を全うせんとするためである、とのことです」

「やれやれ」

林課長はスイッチを消した。

「林課長」

金本東はキラット目を光らせて林課長を見つめた。

「私は、林徳寿と言います」

「私は、金東奎です。この度、転任して来 ました。宜しくお願いします」

それから、一ヵ月がたった。

「朝鮮総督府令。国民徴用令七条の二による一般徴用を発令する。金本東。大正十二年一月八日生まれ。二十一歳。住所江原道 春川郡本町五丁目二番地。九月十四日午後二時、春川郡庁前に集合せよ」

「お国のために働けるのだ、ありがたいと 思え」

役場の係員の押さえ込むような声が、沈黙の中で空々しく聞こえた。

「アイゴー。アイゴー。アイゴー・・・」

突然沈黙を切り刻むようなオモニの叫びが耳元で鳴り響いた。

「アイゴー。何でたった一人息子の東奎まで日本は奪うのか。アイゴー・・・。日本 人は朝鮮の土地を奪い、アボジを奪い、名前を奪い、言葉を奪い、まだ奪いたらねいで私の一人息子まで奪うのか。この鬼!イルボン帰れ!出て行け!アイゴー・・・」

オモニは役場の人に掴みかかろうとしたが、すんでのところで取り押さえたら、床を叩きながら嗚咽した。いつの間にか、玄関には役場の係員の姿は消えていた。オモニの興奮はいつまでも収まりそうになかった。

「東奎、居るか」

暫くして、友人の朴鐘周とその妻の純姫が訪ねてきた。

「鐘周、さあさあ、上がって」

黄土色の油紙を張ったオンドル部屋に二人を通した。薄い座布団に朴はあぐらをかき、純姫は片膝をたてて座った。朴たちの思い詰めた表情は事態の深刻さを顔に物語っていた。

「鐘周、お前にも来たか。この白紙徴用」

「夕方、俺にも来た。俺たちをどこに連れていく気だろうか。戦争はますます激しくなってくる。これまでも、我々朝鮮人を、樺太や満州、北海道や九州の炭坑に連れていっているという噂だ。中には、南方のアジアの激戦地に行った者もいるという。今年の四月に徴兵令が半島に布告されて、徴兵検査があり、いつか俺たちにも徴兵か徴用が来るんでないかと思っていたが、とうとう・・・」

朴は一言一言噛み締めるような口調で語った。朴は東奎の幼なじみであり、親友だった。朴は創氏改名で、新井鐘周となっていた。東奎は春川中学へ進んだが、朴は春川師範へ進み今は国民学校の教師になっていた。純姫とは、同じ勤め先の国民学校で知り合って昨年結婚した。

「私はどうしたらいいの。私たちは、松根油も取って来たし、金属回収令で金物もみんな供出してきたわ。その上、わたしの夫 まで徴用するなんて、アイゴー・・・。生徒たちはどうなるの。教員まで徴用してどうやって授業すればいいの。どこか狂っているわよ」

純姫は始め静かな口調だったが、次第に声を荒げ激昂していった。純姫は目にいっぱい涙を溜めてチョゴリを握りしめた。

「今度の徴用令は、『特別年齢徴用令』と呼ばれているもので、江原道・咸鏡南道・咸鏡北道の青年に布告されたもので、大正十一年十二月二日生まれ以降、大正十二年十二月一日生まれの者が対象らしい。赤紙 徴兵ならぬ白紙徴用らしい」

「それだけじゃないのよ。先月にでた『女子挺身勤労令』の制令、あれで教え子たち が次々に連れ去られているの。それまでも、女子愛国奉仕隊とか女子勤労奉仕隊とかいって、軍事工場に行っていたけど、今度の女子挺身勤労令は日本だけじゃなく満州や 支那どころか南方にまで送られているみたいなの。まだ、十四〜五歳の女の子をよ。私のところに相談に来たり、お別れに来たりしてくれるんだけど、何もしてあげられなくって」

純姫は自分の膝を拳で叩きながら話した。その拳の上に涙がポトポト落ちた。

「しかし、俺は行かねばならん。逃げたらオモニがどんな目に合うかわからんし・・悠久なる大義に生きる皇国の恩ためにも、東亜民族の興亡は俺たち若き半島の産業戦 士の肩にかかっていると思う。半島人の心 意気を示してきたいし、まだまだ、半島は産業や文化も内地に較べて劣っている点が 少なくない。多くの若者が技術を学んで先 進内地を体験し、帰国後は半島同胞に知らしめようと思う」 東奎は、決意のような口調で語った。朴は、東奎を睨むように見つめていた。

「いまさら、逃げれるわけでないし、しかたがないじゃないか。なあ、鐘周」

「私は、くやしいわ」

純姫は白いチマチョゴリの胸についていた名札を握りしめた。

「何もかも日本は奪っていくわ。私たちの 誇りも尊厳も、なにが一視同仁よ、内鮮一体よ。お米も土地も名前も奪っておいて」

お茶を持って部屋に入ってきたオモニに純姫は駆け寄り、抱きついていった。

「ハルモニ、アイゴー。ハルモニ、アイゴー・・・」

純姫はこれまでの胸のつかえをいっきに噴き出しているかのようだった。

ランプの炎が揺れていた。東奎が、胸の十字架に手を当てて祈っていた。東奎は何か得体の知れぬ不安に胸がいっぱいとなり、込み上げてくるものを必死に抑えた。


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