『ムグンファの季節』 第2章


「アンニョン・ハシムニカ」

総務課の課長さんに連れられた、四十すぎの息子と変わらない人が、韓国語で挨拶をしてきた。

「キムさんですか。私は、地元の高校で教えている高木というものです。さきほど総務課長さんから電話があってきました。キムさんは協和隊の何中隊にいましたか」

どうやら、私はソファーで昔のことを思い出しながら眠っていたらしい。

「ああ、第五中隊にいました」

「こんな写真が残っていますが、キムさんは写っていますか」

高木先生は、カバンの中からすこしセピア色に変色した一枚の写真をだしました。

「これです。一番前の列の五番目にいるのが私です。この人が堀田隊長で、横にいる人が石本中隊長です」

協和寮で、皆勤競争に優勝した時の写真であった。昭和二十年四月一日と、写真の下に書かれている。

「どうしてこれが・・・」

「堀田隊長は、戦後まもなく亡くなられいます。石本中隊長も十数年前に亡くなられています。

しかし、協和隊本部で働かれていた藤原貢さんは八十二歳になられていますが、ご健在です。この写真は藤原さんから預かっているものです。お会いしたいならご一緒しますが」

「藤原さんは、まだ生きておられましたかぜひ、ぜひお会いしたい。藤原さんは、造船所の係長で、温厚な人でした」

私は、高木先生の車で藤原さんの家の方に向かった。町並みは美しく、五十年前の宇野の町の面影はどこにも見当たらなかった。私は、高木先生の車に乗せてもらって、市内をまず案内してもらった。

「この場所は、現在宇野北中学校になっていますが、このあたりが協和寮があったところだと聞いています」

高木先生のその説明に、ピンと来るものがなかった。それほど風景は変わっていた。

「近くに、高等女学校があって、小さなどぶ川があったはずです」

「ええ、その女学校は現在高等学校になっています。あの山のふもとにあります。そのどぶ川も、今はコンクリートでふたが閉まっているだけで、この下を流れているはずです」

「宇野駅があちらなら、あのあたりが正門で、周囲は竹垣で囲まれていまして、右から四棟、中央に食堂と風呂場があって、左に三棟がありました。正門近くに本部がありました」

私は、あの日のことを思い出した。


東奎が第五中隊の副官に、親友の朴鐘周こと新井が同じく第五中隊の小隊長に任命された。東奎の心に半島の産業戦士としての心意気を示そう、という気持ちが湧き起こっていた。九月二十三日、到着して二日目の日暮れのことだった。ところが、一生忘れることのできない出来事が起こった。

中隊長室に呼ばれると、そこに赤い越中ふんどしに浴衣の前をはだけてだらしなく椅子に座り込んでいた男がいた。明らかに酒に酔っていた。目玉をギョロリと光らせながら、野武士のような態度で、威張った男が第五中隊の中隊長であった。

「お前が副官か」

「副官の金本東です」

それはいきなりだった。全く事情がのみこめぬまま、平手打ちにあった。

「気合いが入っていない。わしをなめると承知せんぞ。この朝鮮人めが。」

反射的に立ち上がり、直立不動の姿勢を取ったものの、言い知れぬ屈辱感でいっぱいだった。

中隊長はふらつきながら木刀を手にして部屋を出ていった。東奎はなすすべなく部屋に立っていた。すくんだ足がガタガタといつまでも震えていた。

それは、協和寮二階の一室でおこった。階段から一番近い部屋だった。この日は秋季皇霊祭の日で隊員たちはくつろいでいた。日中はまだまだ残暑も厳しいが、日暮れになると涼しさも増し、鈴虫がリーリーと鳴いていた。一週間の疲れを癒したり、故郷の思いに浸っている隊員であった。

「整列!」

突然、太い声が部屋中に響いた。協和隊員は真近に見る中隊長の姿に驚きながらバラバラと横一列に並び始めた。

「点呼!」

「一・二・三・・・」

「何故いわん!」

「四(し)」

「四(し)じゃあない四(よん)だ」

中隊長は木刀をぐっと握りしめたかと思うといきなり隊員の耳あたりを思い切り殴った。

「アイゴーオモニ・・・・・」

「貴様、いま朝鮮語を使ったな。ここは日本だ、日本語を使え。ちゃんと気合いを入れてやる」

隊員は耳から血を流して蹲っていた。隊員の背中や頭に、木刀は容赦なく降りそそいでいった。木刀に引き裂かれたシャツからむき出しになった背中は見る見る間にみみずばれし血が噴き出してきた。頭からも血が出ていた。隊員は気絶した。止めを刺すように中隊長は隊員を蹴飛ばした。丁度その部屋にいた朴鐘周は殴られて倒れた隊員に駆け寄り覆い被さるように抱き抱えた。朴鐘周は鋭いまなざしで中隊長を睨みつけた。

「なんだその目は、貴様もこうしてやる」

中隊長は、朴鐘周の背中を二〜三発叩いて、はあはあと息をついた。

東奎は二階で騒ぎが起こったのに気づき、すぐに駆け上がった。入口には別の部屋の隊員が鈴鳴りに集まっていた。東奎がかき分けて部屋に入ったとき、すでに隊員は血まみれで気絶しており、朴鐘周も叩かれた後だった。

「わかったか、反抗する奴はみんなこうなると思え」

「もう一度整列・点呼」

「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十・十一」

隊員たちはほとんど泣きじゃくりながら点呼を受けていた。東奎もどうすることもできないまま立ちすくんでいた。

「よし、金本副官、前に出ろ」

中隊長は木刀を東奎に向けながら言った。

「貴様なら、皇国臣民の誓詞ぐらい暗記しているだろうな、いってみろ」

「はい、一つ、我等ハ皇国臣民ナリ忠誠以テ君国ニ報ゼン。一つ、我等皇国臣民ハ信愛協力シ以テ団結ヲ固クセン。一つ、我等皇国臣民ハ忍苦鍛練力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン」

「よし、全員で唱和しろ!」

協和隊員は皇国臣民の誓詞を唱和した。

「よし、解散」

中隊長は木刀を肩に掲げて、鼻唄まじりに帰って行った。別室の隊員たちは慌てて部屋に帰って静まり返った。中隊長は酔いが覚めたという態度で協和寮から出ていった。


この日のことは、忘れようにも忘れることのできない「事件」であった。私たちの置かれている現状がはっきり認識できた。

この中隊長は、後ほど解任された。日本人の例外だったかもしれない。しかし、私たちが日本で受けたショックは大きかった。


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